癌ステージⅣを5年生きて 2

散骨の風ディレクター KYOKO

こ私の母は、20年前腎臓ガンで亡くなった。3月3日ひな祭り、75歳の誕生日の次の日だった。東京病院のホスピスに入院し、2週間目で、前日には、食事にマグロのお刺身が出て、美味しいと言っていた。私と夫は猫のグリを連れ、前の日からホスピスに泊まっていた。

この頃は、癌と言えば死も同じ、親戚には連絡したが、誰も告知には反対で、それが当然だった時代だ。母は50歳の時、夫を事故で無くし、それから国立で小さなレストランを営んでいた。しかし、朝早くから夜遅くまで、重労働だっただけに大変で、70歳からはリタイアしてのんびりし始めたところだった。現役の頃から、時々腰が痛いと言って、しばらく近所の整形外科に通ったりしていたが、いよいよ酷くなり、別の病院で精密な検査をすると、腎臓に癌が有ることが分かった。それもかなり大きくなっていて左の腎臓を取らなければならなかった。

私たちはどうしたら良いのか分からず、プロポリスだのアガリスクだのその頃良いと言われる物を買って飲ませるしかなかった。手術は、長時間掛ったが無事に終わり、ホッとしたが、その後、放射線治療をしなければならなかった。母には癌だという自覚は無かったようで、見舞いに行くと「忙しいんだから、遠くからわざわざ来なくて良いのに」と言って、私たちの事ばかり心配してくれた。若い頃から苦労が多く、働き詰めであったが、いつも前向きで気が良く本当に優しい善人を絵に描いたような人で、美人だったのも私の自慢だった。

やがて母の癌は、膀胱に転移し、膀胱も全摘、人工膀胱になった。私たちは、どうであっても母に生きていてほしく、その手術も本人に聞かず承諾した。それが良かったのかどうか今は解らない。でも、母としても生きる事を選択しただろう。だが、余命の長さによるのかもしれない。我慢強い母も骨に転移すると「痛い、痛い」と言って、強い痛み止めを打って貰っていたが、助からないことを知り、私たちはホスピスに入ることを進めた。あちこちのホスピスを調べ、なるべく早く入れる所に手続きをした。その時点でも、まだ母に癌だと言えず、母も薄々感づいていても認めたくないようだった。しかし、いよいよ入院になると本人の自覚が必要で、私たちもついに告知せざるを得なかった。

癌だと告げても、母は納得できないという感じだった。あらためて知らされても、「何で私が」と思ってしまうのだ。6人兄弟の末っ子で、女一人、戦死した兄の他は皆長寿で、父親も90歳過ぎまで生きていたから、なぜ自分が先なのか分からないと言った感じだ。

東京病院のホスピスは清瀬市にあり、元は結核のための病院だったそうだが、部屋は個室、バストイレ付きで広く、芝生の大きな庭に出られるようになっていた。それまでいた4人部屋の病棟とは大違いで、もっと早く入れてあげられていれば良かったと、今は思うばかりである。他界して半年後、新婚旅行で行ったという熱海の沖に散骨した。

母の娘に生まれ、育てて貰った事が最高の幸せだった事に今になって気づいた。

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