癌ステージⅣを5年生きて 13

散骨の風ディレクター KYOKO

友だちの大腸癌 2

四ツ谷荒木町にあった大好きな居酒屋「桃太郎」のご主人も10年前に大腸癌で亡くなった。74歳だった。経営していたアパレルの会社が倒産し、食道楽のご主人が、今まで食べて来た全国各地の美味しい物を出したいと始めたお店だったが、1年位流行らなかった。私たちは雑誌で見た鯛めしが食べたいと行ったのだが、その頃お客はまだ少なかった。

そんな時、ご主人の知人だった朝日新聞の記者が、或る逸話を新聞に載せた。それからお店は大ブレーク、予約の取れない店になった。その話とはこうである。まだ食べられそうな太刀魚がゴミ箱に捨ててあったので、「どうして」と彼が聞くと「刺身にしようと思って仕入れたんだよ」と、それを面白いと思い、彼は一面のコラムにしたのだ。ご主人の太っ腹で一本気な性格が出ている。

場所がら、高級サラリーマンやマスコミ関係、芸能人、流行作家、漫画家、シェフ等が集(つど)っていたが、料理の美味しさよりもご主人の飾らない温かな人柄に魅せられていたようだ。ご主人は食べるのは勿論、芸事も好きで、「かっぽれ」を習いに行ったりもしていたが、座頭市が好きで、その物まねがとても上手く、それを見るのが楽しみだった。そんな私たちは、そのお店に通うために立川から、その近くに出来たマンションへ引越し、会社もそばに事務所を借りて移転した。

後に鍋ブームの先駆けとなった「桃太郎鍋」は、牛筋で出汁を取り、野菜をしゃぶしゃぶにするのだが、それは大人気となった。その鍋も美味しいのだが、メニューではなく特別に出してくれた故郷の岡山から取り寄せた旬のシャコ、もうその季節になるが、茹でてハサミで両脇と頭を切って、かぶりついた味は今でも忘れられない。松茸と和牛だけのすき焼き、その贅沢な事、採れたてのホタテを殻から食べたのも心に残っている。

お店を閉めてから、常連と新宿2丁目に繰り出した事がある。偶然見つけた小さなディスコで踊り、その後(あと)ハシゴをして飲んだアブサン、夜明けの街をほろ酔いで、道幅いっぱいに中年男女が広がって歩いたのも笑ってしまう思い出だ。ご主人も私たちも大腸癌の一端はそんな楽しさの中から生まれたのかも知れない。

彼は、私たちがこの仕事を始める時から散骨に賛成で、今は城ケ島の沖の海に眠っている。そう言えば去年、石垣島に散骨したHさん、もうすぐ命日だが彼も大腸癌だった。

前の記事次回に続く