癌ステージⅣを5年生きて 41

散骨の風ディレクター KYOKO

手術が終わって

今回も「北田さん、北田さん終わりましたよ」と言う声で目が覚めた。夫も側にいて、「人口肛門にならなかったよ」と言ってくれた。私はぼんやりしていたが微笑んだ。やはり、先生が上手だったのだ。直腸をギリギリまで取って置いてくれた。本当に良かった。今度も大腸外科チームと女性科チームで奮闘して下さった。私は本当にラッキーなのだろう、これで全部のガンが私の中から取り出された。肝胆膵外科の国土先生は、4月から他の病院に転院されている。先生の東大病院での最後に近い私の手術も何と言ったらいいのだろう、奇跡みたいに全てが上手く行っている。後から写真を見ると私の筋腫は子宮からはみ出す位大きかった。小豆島で右鎖骨を骨折した時に、子宮筋腫が有りますとは言われていた。でも、「年を取れば自然に小さくなります。放って置けばいいですよ。」と言われていたのに、どうしてこんなに育ってしまったのだろう。今回の傷跡はお臍から?を書いて真直ぐ下に切れていた。「?型」の傷は大腸の時のもので、肝臓のはJ字切開で、横線も水平では無かった。

神経質な私

私は前回のような過程を経て、自室へ戻った。今回は何事も無く手術後の3日間を過ごした。私は前から師長さんに窓側のベッドが空いたら変えてほしいと言っていたが、なかなかいい返事が聞けなかった。2人部屋の場合、トイレ兼シャワーが窓側に有り、そこの窓は丸く宇宙船のような感じだ。洗面台も窓の側に有る。ここは4人部屋よりははるかにましだ、余程個性的な人と一緒でなければだが。隣の人に予め挨拶をし、「夜中にトイレに行ったり、うるさかったらごめんなさい」と言っておく。それでもトイレや洗面は、相手の動きを見て動く。夜中は、少しでも音を立てまいと、泥棒のように動き、トイレのドアノブも音がしないようにそっと回し、水も少しずつ流す。いびきや寝言も言わないように口にテープを貼る。私は本当に神経質だ。いつもいっそ空気になってしまいたいと思う。

袖の下?

4日目になって窓側に移れる事になった。ここからは旧岩崎邸の庭が見え、不忍池も見える。隣のベッドの人が入院して来る前、私が1人の時になぜか師長さんが現れた。私がお礼を言っても彼女は帰らない。用もないのに手すりを拭いたり、洗面所の様子を見たり、何か手持ち無沙汰にうろうろしていたが、やがて戻って行った。私はその手の事は初めてで鈍く、本当は「お礼」等を要求されていたのかと、大分後になって気が付いた。最近はどこの病院でも、「医師や看護師への贈答品お断り」と貼って有り、お菓子など差し入れしたいと思っても止めていた。東大病院では貼っていないが、もちろんそうだろうと思っていたのだ。

東京の看護師さん

看護師さんも高松では、皆おっとりとしていて讃岐弁が優しかった。それに比べると東京は、テキパキと良く動き、言葉もきつく感じる。それは、東京下町育ちの私がよく言われる事だが、日頃から早口で、余裕がないとぞんざいになり、怖いとか怒っているとか夫から言われる。北海道生まれの夫は育ちが良く丁寧で、彼の妹たちは、まねが出来ない位ゆったりと話す。すぐ下の妹の話し方は独特で、歯切れが良いのに物柔らかで、女らしくはないが感じが良い。誰もが魅せられてしまうのではないかと思う。私は人にものを頼むのも苦手で、夫にも殆ど頼まない。だから何でも自分でやるのだが、夫にたまに頼んだり、間違いを訂正したり注意すると、言葉がきつく感じるらしく、人に「いつも妻に怒られて」と言う。私は余程恐妻家に見えるだろう。優しい妻であろうとしている私は悲しい。

看護師さんも美人で優しい人が来ると嬉しいし、怖い人に当たると気分は落ち込む。忙しい仕事だから、ストレスも多いと思うが、人当たりは性格の問題か難しい。

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