癌ステージⅣを5年生きて 47

散骨の風ディレクター KYOKO

再び大移動

2017年6月から7月に掛けての忙しさは尋常ではない。私の大手術も終わり、仕事や通院、生活環境などを考え、海に近く猫たちや小豆島の荷物を置ける広さを確保できる部屋を探した。東京にもお客様の来れるスペースの部屋を探した。私たちの指向は結局同じ所に行き着く。事務所は、前に借りていた番町ハイムに空きが有り、そこに決める。住まいも前に住んでいた横須賀のペット可マンションに、間取りのいい部屋を見つけ、そこも決めた。前にいた部屋も空いて居て、私はそちらにしたかったが、夫は目の前の緑と長いベランダのある部屋を選んだ。私は未だにそちらの方が1部屋多い分良かったのにと思っている。

エネルギッシュにクレイジーに

さて、大変な引っ越しが、病気の治療と仕事の忙しさの中で始まった。女坂の事務所の一部を番町へ、残りは湯島の荷物と一緒に横須賀へ運ぶ。小豆島にも帰り、ヨットの荷物を家へ運び、畑は片付け、部屋の荷物もまとめた。全部で4トン車2台分の量はある。引っ越しは、荷造り、運搬、移動、荷ほどき、整理、掃除の大作業だ。夫は徹底して捨てない主義で物が好きだ。私も勿体ないと思って捨てられない。子供の頃の宝物はもちろん、絵画や彫刻のコレクション、古くてサイズの小さな洋服、山の道具一式、キャンプ道具、子供の頃からの本が何千冊。柘植(つげ)の枝まで捨てない。お茶道具、ニューヨークで買ったアンティック類、高級食器やグラス。一番安い業者を使うから、運搬以外は全部やらなければいけない。今は枯れてしまった琵琶の木とレモンの木も鉢植えにして持って来た。ヨットの装備は大きなアンカーからロープ、ゴムボート等など。夫の妹にも事務所の箱詰めを手伝って貰った。その間、夫は油壷、三浦海岸、葉山、横浜等の散骨や私たちの通院、横横から湾岸、首都高を走る目まぐるしい日々が続いた。未だに開けてない段ボール箱がある。家に運んでしまえば、後は限りなくスローになる。今考えても恐ろしくなるようなエネルギッシュでクレイジーな日々を、60代後半で病気の私たちが送ったものだ。自分でも可笑しくなるが、私たちの人生はこの連続、いつもこうだ。

忘れていた東京の恩恵

8月、私は通院して抗がん剤治療を続けていたが、夫は金沢へ行き、愛媛へ行き、台風による散骨スケジュールに悩まされ、恒例のジャズフェスも段取りし、スーパーマンの様だった。本来怠け者の夫の真骨頂を見る思いである。頑張るときは頑張る、無理もする、私が働き過ぎの時期もあったが、もう5分5分に頑張っていると思う。私たちは好きなように生きているから、多少の大変さは苦に思わない。その分、よく寝て、よく食べ、よく遊ぶ。

9月後半から少し落ち着き、東京に帰って来た恩恵を受ける。大好きなオペラのライブビューイングを観に東銀座へ行ったり、新国立劇場へ、60年代に劇団四季でよく演じられた芝居「トロイ戦争は起こらないだろう」やその作者ジロドゥについての講演にも行き、蒼井優主演の「アンチゴーヌ」等を観たりした。また、東大でロシア文学の大一人者によるドストエフスキーの講演を聞きに行き、東大生の気分も味わった。お茶の水時代の懐かしい自分の世界に浸ることが出来た。さらに仕事にも加わり、大きな書店を廻って読書も楽しみ、馴染みだったレストランにも行った。夫は5万円の車に嫌気が差していて、力のある車を欲しがっていた。車を買う話を知人に相談すると「70歳過ぎるとローンは出来ないよ」と言われた。そして中古だが程度のいいワーゲンのカブリオレを手に入れ満足している。

小豆島とヨットとの別れ

11月に入り、小豆島のマンションが売れた。余裕のある生活であれば、別荘として残して置く事も出来ただろうし、来た事のある友達からは、「売るなんて勿体ない」と言われた。本当にそう思う。あんなに素敵な環境の部屋は、もう手に入らないだろう。しかし、私の病気は治る見込みは無く、東京近郊の生活では仕事も続けなければならない。

ヨットも小豆島を離れる時に、お世話になっていた造船所に買って貰った。湘南近郊にヨットを置くことは莫大な費用が掛かる上、仕事に使える場所は限られていて、操船まですれば夫の負担も大きくなる。夫の右目は加齢黄斑変性になっていた。

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