癌ステージⅣを5年生きて 61

散骨の風ディレクター KYOKO

正義の死

昨日、やっと「赤木ファイル」出て来た。このファイルが表に出て、正確な評価が出なければ、自死した赤木さんの命が報われない。これは日本の国政の最も汚い、民衆を馬鹿にした事件である。一般の人に関わってくる事件ではないが、官僚の許されざる行為だ。

いつでも政治に関心を持つわけではないが、このような非道は許せない。どうか、徹底的な調査をしてその大元となっている人は、良心に従って、真実を話してほしい。末端を見捨て、上の方だけで、いいように話を作り変える。これは、本当にこれをきっかけにこの仕組み、組織を壊してほしい。

同病の人

私は私以外の同病の人が、どんな状況か全然知らなかった。ところがネットを見ていて、ある有名人が私と同じ年で同じ病気のステージⅣで4年目だと言う事を知った。肝転移し、肺にも転移しているらしい。その上腹水を3ℓ抜いているようだ。食事もしっかりとはとれず、苦しそうである。それが普通の病人の症状かも知れない。とても暗い。家族もピリピリしている。それが死ぬかも知れないという事だ。私とは全然違う。私は未だに自分が癌患者とは思えない。苦しみも痛みも全然ない。時々、腰痛や胃の具合が悪くなる事はある。でも前からあることで、すぐ直る。ただ、疲れやすいのは困る。家の中が全然片付かない。

夫と歯医者さん

夫は昨日、歯医者に行った。とても嫌でも、歯は治療しない訳には行かない。夫は歯医者に行くとコチコチに緊張して、ガッツリ疲れて帰って来る。次回は歯を抜くそうだ。前歯は入れ歯だし、インプラントも3本あり、よく虫歯になる。

ヨット仲間には歯医者さんが多かった。ある先生は、マリーナの桟橋でいつも歯ブラシを持ち、ひまなく歯を磨いている。ある時、夫は入れ歯を直しに、千葉の友だちの所まで行った。気の置けない友達だから気楽である。いよいよ治療にかかると「痛い、痛い、バカヤロー、痛いじゃないか」と大声で夫は叫んだ。友だちの先生はあせった、「北田さん、静かにしてよ、待合室に聞こえるから」と、小さな声で頼む。夫はうちに帰り、「あー面白かった!」である。

映画「マラソンマン」の歯の拷問シーンには思わずゾッとした。歯をいじられるのは、嫌なものである。

歯医者さんとの嫌な思い出

私は虫歯がない。虫歯にならないから、20年位歯医者に行かなったら、酷く怒られた。歯槽膿漏かも知れないと思って、友人の紹介してくれたとても上手だという所へ行ったのだ。若い夫婦で2代目としてやっているらしい。歯周病に関しては、徹底的に研究しているらしくいろんなデータを持って来て見せる。私の歯の写真を持って来て見せる。こんな酷い歯は見たこともない。20年も歯医者に来ないなんて(それでも人間ですか。)と言う感じだ。第一に磨き方が悪い。私が口を開けている間、徹底的にいじめられる。私は口を開けているから言い返せない。この人は歯でしか人格を見ない人だと思った。それでも何回か通った。そして奥さんに代わって貰った。しゃべらないだけましだと思ったら、大間違い、とにかく乱暴である。ガチャガチャやる。これも参った。それでまた元の先生に代わってもらった。今度は歯の色の事だ。「何を食べたり飲んだりすればこんな色になるんだ。こんなの見たことない」。私は濃いコーヒーにミルクを入れて飲むのが好きだが、それだけだ。私はもう、我慢ならなかった、止(や)めた。すでに心がズタズタになるまで傷ついた。こんなに正面から傷つけられたのは、生まれて初めてだ。歯だけを相手にされ、全人格を否定された。そんな気持ちはしばらく続いた。それから私は、良い歯医者さんを探して横須賀中を廻った。どこに行っても、まず歯の磨き方から指導される。それが嫌だった。それで次々歯医者を変えた。そうしているうちに、私の歯は良くはなった。歯槽膿漏でもなければ歯周病と言うほどでも無くなり、最近は「良く磨けていますね」と褒められるようになった。そして、私は歯磨きが好きになり、歯間ブラシもフロスも使うようになった。癌になると感染症を防ぐため、定期的に歯医者さんに行かなければ行けないのだ。今は、歯の掃除の為に、嫌ではない歯医者さんに通っている。

歯医者さんとの良い思い出

小学校5年生頃、私は友だちが通っている歯医者に付いて行った。お茶の水にある日大の歯学部だった。彼女が治療している間、私は廊下の椅子で待っていた。彼女が終わると、先生は私も見てくれると言う。私は素直に従った。特に問題があったのか分からなかったが、「来週もまたお出で」と言われた。私はお金も払わなかった。保険証の事なども知らなかった。私は言われた通り、次の週も行った。土曜日だった。先生に口の中を見せたのかどうかは覚えていない。しかし、その後一緒に学食に行ってカレーを食べた。何を話したのか覚えていない。しかし、それから毎週先生とカレーを食べる事になった。どれ位続いたのか分からない。その先生は、禿げ頭のおじさんだとしか覚えていないのだが、今思えば30代位だったのだろうか。嬉しいとも楽しいとも思わず、ただ、カレーをご馳走になっていたが、先生は何を考えていたのだろう。

前の記事次に続く