癌ステージⅣを5年生きて 80

散骨の風ディレクター KYOKO

イコンを探して北欧&バルト3国 2

古く優しい文化の香り

私たちの旅は忙しい、10日ほどで4か国を廻らねばない。しかし、バルト3国は小さな国の集まりで、すぐに隣の国へ入れる。次は、ラトビアだ。ユーロ前だから国境でパスポートを見せるが、審査は簡単だ。国道に沿ってリンゴの木や栗の木があり、小さなリンゴや栗が落ちている。キノコ狩りの人たちもいる。緑の多い街道は清々しく気持良い。途中から海沿いになり、パルヌのヨットハーバーで昼食を採った。首都リガでは、道に迷いインフォメーションでホテルの場所を聞いた。途中から小雨になり、石畳の道が濡れて艶々(つやつや)している。

翌日、雨は強くなっていた。やはり旧市街があるので、そこの海洋博物館に行ってみる。観光客は私たちだけで、スタッフが先に立ち、部屋ごとに電気を付けてくれ、出ると消す。ソ連に占領される前のラトビアの良き時代がそこには在った。旧市街の魅力に染まり、何処へ行っても旧市街に行くが、ここには文学者協会らしい家が有り、威厳と尊敬と包容のような町の人の文学への好感が見えた。その中のレストランで、文学者気分で食事をした。やはり温野菜の料理が美味しい。さて、リトアニアは近い、先へ進もう。

リトアニアと言えば

国境を越えて、私たちは真直ぐカウナスへ向かった。勿論、旧日本領事館、杉原千(ち)畝(うね)の家だ。本のイメージとは大分違って小さい。日本のシンドラーと言われ「当然の事をしたまで」と言う彼だが、その時代のその状況を実際には知らない私にとっては、やはり当然の事だと思ってしまう。本当のその時の現実を実感出来ないから、私の性格からして、男だったらやっただろうと思うのだ。だからといって、彼の偉業を軽視するわけではない。彼が日本人だった事を誇りに思うし、悪く言われる歴史の中で本当に有難いと思う。同じ時代に時代に流され、恨みを買うような日本人が多くいた事実はある。現在の自分という人間を置いて「当然」と思っても、その時代どの様な教育の下で、どの様な環境で育てられたかによって、どういう大人に成ったかは分からない。人の命を平等に尊(たっと)べるように育ち、それを実行に移せるポジションに彼が居たという事が大きい。もし、彼がユダヤ人たちを救わなかったら、彼は一生後悔し、辛かったと思うのだ。戦時中の立場上、気に染まぬ事をさせられて、一生悔やんだ日本人もどれだけ居ただろう。元特攻隊の隊長で90歳過ぎまで生きていた人は、本当に辛い人生だったと言う。その様な方を何人か散骨した。

リトアニアのロシア人

首都ビルニュスは近い。私たちはホテルに車を置いて、旧市街へ行く途中川岸で釣りをしている子供たちをしばし眺め、遊ぶ。丘の上のゲディミナス城から街を見下ろしていると、後ろから若い青年が日本語で話しかけて来た。「僕は、ロシア人のイリアです」と言う。日本語を勉強していて日本で仕事をしたいそうだ。彼は、昼食を食べに大学の学食に連れて行ってくれた。カウンターに並び、好きな物を取って、レジに並ぶシステムだ。美味しいとは言い難いが、安いのが取り柄で、学生にはそれが一番だ。この国でロシア人が住むことは非常に複雑な思いがあるようだ。彼はロシアの体制が好きでは無いと言っていた。そして、「将来日本に行きます」と言った。

恨みのミュージアム

私たちは、旧市街のアンチックショップへ行き、比較的安かったのもあり、イコンを4枚も買った。物価は南に行くに従い安くなっている。中年男性の月収が300ドル位とイリアから聞いた。若い人は100ドルも貰えないそうだ。それは98年当時の話だが。

さて町を歩きナショナルギャラリーへ行って見る。戦争の傷跡、流血の民族史、この国はロシアとポーランドに挟まれている。ここは、恨みのミュージアムと言う感じだ。旧ソ連時代のパスポートにスポットライトが当てられ、透明の大きな箱に山の様に捨てて有るのを展示していた。島国の私達とは違う、大陸の国の大変さを思い知る。

十字架の丘

大聖堂の前のレストランで食事をし、ビルニュスを後にする。これから帰路だ。途中、気になっていたシャウレイの十字架の丘に寄る。無造作に置かれたいろいろな十字架が積み重なり、茨のような感じに並んでいる。おどろおどろしい雰囲気で悲しさと苦しみが伝わって来る。カトリック教徒がロシアに抵抗し、遺体の代わりに十字架を置いたという。ここは観光地ではないので、周りには何もない。公衆のトイレが有り、行くとおばあさんが居て、右手を出す。チップが必要なのだと思いリトアニアの小銭を渡す。お金を渡すとおばあさんがトイレの便座をくれた。これにはびっくりした。後から人に聞くと、トイレットペーパーをくれる所も有ると教えられた。いろいろな所でカードは使えるが、こういう時には、現地の小銭が必要だ。しかし、ドルの人気はどこでも圧倒的だ。今まで底抜けに明るくジョークばかり言うアメリカ人ばかり見ていて、ヨーロッパの小さな国へ来ると人々は穏やかで静かだ。私にはその方が馴染みやすい。

文化的なラトビア人

ラトビアとの国境ではなぜか1時間位待たされた。昼過ぎに前と同じホテルに着き、雨だが旧市街を歩く。ここはアンチックショップが少ない。夕食を文学者協会のレストランで、学者風の人に囲まれて食べる。ラトビアは音楽教育が盛んなのか、私の好きな有名なメゾソプラノのエリーナ・ガランチャを始め、ソプラノのオポライス、M・レベカなどオペラ歌手として国際的に活躍している。そして有名になった音楽家が全体に多い。他でも文化的なレベルが高いのだろう。

異国での事故

雨が続く中、リガを発ちシグルダからエストニアへと順調に走っていたが、ツェーシスの旧市街城壁の中に入り、大変な事が起こった。石畳の道で、突然階段を落ちたのだ。せいぜい1,2段だが、一瞬何が起きたかと思った。車は止まっているので、私たちはそっと外に出た。こんな言葉の通じない異国で途方に暮れていると、階段の下の駐車場に居たバスの運転手さん達が集まって来て、男の人4人で車の前部を持ち上げ、押し上げてくれた。もう言葉もない。困っている状況を見れば、助ける。それが国を越えての人情で、文化だろう。車は元に戻り、傷一つない。私たちはラトビア語で「有難う」を何度も言い、「さようなら」と言ってエンジンを駆けた。旅先の災難、そう思ってくれているようで、みんな笑顔だ。馬鹿だと思っている人は居ないようだ。気持ちは通じた。夫の言い訳、旧市街の道には、瓦礫が積み重なり、車線が解りづらい。それにドーム状の門が多く、道が続くのか、階段なのかも読みづらい。

時空を超えて

その日はエストニア国境から北東60㎞の町タルトゥのモダンなホテルに泊まった。夜は元火薬庫だったというホテルの地下のレストランに行った。次の朝は霧だったが、道は良く午前10時にはタリンに着いた。私たちは早速旧市街に行った。歩いて居て素敵なカフェに出会った。元修道院の厨房をそのままお店にしていて、二階分ぐらいの大きなかまどがあり、雰囲気が抜群だ。そこにスティングの曲が流れている。それが凄いマッチングなのだ。「ワーッ」と言いたくなるような感動で涙が出そうになる。エストニアの評価は一気に上がる。もう最高だ。そこにいつまでも毎日でも通いたい、時の感覚が無くなってしまう。夜に中華など食べに行かなければ良かった。幼稚園のような騒がしさにさっきまでの雰囲気が台無しになった。

信者の増える教会

さて、明日はフィンランドだ。船のチケットを購入し、ピリタの修道院跡を見て、ヨットクラブにも行って見る。海辺の空気を満喫するが、ハーバーの規模は小さい。

そして再び旧市街に行き、気になっていたイコンを買い、町外れの教会を覗いて見る。何気ない普通の教会だが、入ってみて驚いた。美しいテノールが響いている。神父さんが讃美歌を歌っているのだ。その日は日曜日、そのミサなのだ。若くてイケメンの神父さんが歌うから、おばあさん達の集まりも良い。辛気臭い説教より、余程有難く、天国に行ける気分になりそうだ。

バルト三国最後の夜は、高級レストラン「グロリア」へ行った。

フィンランド湾海上パブ

タリンから再び船に乗る。私は船が好きだから、機会があればどんな船にでも乗りたい、潜水艦を別にすれば。時間にゆとりがあれば、交通機関として船を使いたい。海と空はいくら眺めても飽きない。

さて、ヘルシンキへ向かう船内は、タリンで持てるだけビールやワインなどを仕入れて来た連中でいっぱいだ。そして船上の2時間は途端にパブと化し、みんな海風を肴にビールを飲む。上機嫌だ。酒税の安さは家計に優しいのだろう。何本多く飲めるのだろうか。カモメが舞う中、フェリーは無事ヘルシンキに着岸、出口は大混雑になった。夫はいつも乗っている船や、港、ヨットハーバーに着く船の着岸を見る。今のは80点とか勝手に点数を付ける。私たちもいつも着岸を見られていたのだ。一番傑作だったのは、東海岸のハーバーに老夫婦がヨットで入って来た時だ。桟橋でのんびりしていた老いも若きもが一斉に駆け寄り、着岸を手伝った。その時の夫婦のセリフがいい、「今日は上手く行った」。

次の日、私たちは東京に帰った。前日の夕食は、勿論、Japanese。

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