癌ステージⅣを5年生きて 81

散骨の風ディレクター KYOKO

徒然なるままに

私はプロではないから、文章が下手で当然だ。私は一度出したものを読み返さない。いつも夫に読んで貰う。自分で読み返せば、直しの塊となり、徹底的に直すだろう。それはきっとプロの仕事だ。#100まで書けたら、最初から読んで反省しよう。

今は下書きなしで、PCの前で考えながら、いきなり書く。何を書くかあまり考えていない。指の進むままキーを打って行く。それも入力間違えの「素晴らしきPCの創作的傑作単語」の多さ。何度も間違えて入力する。私は両手が塞がるのがいやなので、1本指で打つ。だから携帯の入力の方が楽だ。一度書いたものを読み直すと酷い。変な癖が所かまわず出ていて、頭に浮かんだ言葉順に書いているから、すっきりしない。無駄も多い。助詞が足りない。

書く覚悟

最近は、手直しに時間があまりとれないので、かなりいい加減だと思う。読み直せば、読み直すほど直しが見つかり、永遠に終わらないのではと思い、時間切れという事にする。内容が変わるわけではなく、如何に読みやすく整頓できるかなのだが。

昔、岡本かの子は誰に言われたのか忘れたが、「小説を書くと言うことは、日本橋を裸で歩くようなものだよ」と言われた。その言葉は、ずっと私の心に残っていて、だから書かなかったのもあると思う。

もう、70歳にもなると誰も裸など見たくないだろうし、かなり醜い。でも、言葉は頭だ。すべて頭は裸になる。学が無いのも、教養がないのも、考えの深さも。無い物は出ず、薄っぺらさはすぐ解る。

お里が知れてしまう。もう、恥も書き捨ての心境だ。どっこい「それでも私は生きて来た」だ。

私は古い話を書く事が多い。記憶とメモの様なものを頼りに書いているから、今と随分違っている事があると思う。ここで言って置かねばならないが、すべてが印象であり、正確ではない。

それに誠に勝手に種々雑多にあちこちに飛ぶ。それが私の頭の中で申し訳ない。

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