癌ステージⅣを5年生きて 88

散骨の風ディレクター KYOKO

ジョン・レノンが行ったバー

私の伯父は新橋で会員制のバーをやっていた。伯父は母の三番目の兄で背が高く、とてもハンサムで、利三郎という名前だった。皆からリサちゃんと呼ばれているのが、何となく女の子の名前見たいで可笑しかった。そのバーは後に立ち退きで、銀座に移った。そこでも四季の女優さん達が、交代でバイトをしていて、浅利さんも出入りしていたらしい。伯父の店はとてもユニークで、サントリーの角しか無く、おつまみも無かった。冷蔵庫はずっと旧式の氷を入れて冷やすタイプのままだ。それなのに出入りする人は超一流の人ばかり、経団連の会長なども居た。そして有ろうことか、ジョン・レノンが行っていたのだ。それは新聞にも載った。店の名は「ルーブル」伯父の妻、伯母さんが何しろユニークな面白い人だった。嫌な事があると、すぐに「私、パリに行って来ます」と1人で行ってしまう。フランス語が出来ないのにパリの街を歩き回り、ルーブル美術館に行っては、いろいろな物を買って来た。店は狭く、アンチックの置物がたくさん置かれ、日本の有名画家の絵も飾ってあり、カウンターに8人位しか座れない。その狭いカウンターの中では、女優さんたちの歌や即興劇が行われる。内カウンターの下には、三度笠やいろいろな小道具が置いてある。私も一度行ったが、あんなに楽しいバーは初めてだ。

子供の頃の伯母は、とんでもないイタズラっ子で、近所の旅館の並べてあるスリッパを1つずつ持って行き、川岸に並べて遊んだとか、自分の七五三の着物を犬に着せてしまったとかとても面白いエピソードがある。

伯父の交友と私の友達

伯父は、画家や小説家とも交流があり、特に有島生馬とは、一緒にスキーに行ったり仲が良かったらしい。ここでも不思議なつながりがある。私の同級生で舞台の相手役だった友達は、有島武郎の孫だった。当時は有島姓では無かったが、今は生馬氏の跡を継いだのか有島君になっている。最近は会っていないが、イエローマジックの人達とも仕事をしていた。音楽関係の仕事をしていて、うちがデザイン会社の頃は、彼の所のCDジャケットなども作ったが、今はリタイアしたかな。そういえば、その頃の彼は、「風」の麹町事務所のすぐそばで、広い敷地のお屋敷に住んでいた。文豪と言えば、「ルーブル」の伯母の家系にも夏目漱石と縁の深い人が居たらしい。そして漱石と言えば、私の若い頃の元上司は、夏目漱石の弟子の息子だった。うちに最初に来た猫はそのうちから貰った。漱石の研究家として漱石全集などの編纂、解説をしていらしたその家には、クラシックな燭台付きのピアノがあった。今、日経の朝刊に連載中の「ミチクサ先生」の挿絵にそのピアノと同じ絵があった。

母方の伯父たち

末っ子の一人娘だった母は、4人の兄たちや義姉たちから可愛がられていた。母の兄弟は1人戦死したが、皆長生きで仲が良かった。だからみんなで集まったり、温泉に行ったりして楽しんでいた。母と直ぐ上の義造伯父さんは、東京大空襲の時、深川の家に居たので2人で逃げたと言う。そこは一番被害が多い場所だった。だから特に仲が良く、夫婦喧嘩をすると母は私と妹を連れて義造伯父さんの家に泊めてもらった。

利三郎伯父さんは、豊洲の団地に住んでいた。伯父は大正元年の生まれだった。子供はいない。銀座にもバスで行けば近いので、長くそこに住んで居た。私の母方の人たちは、あまり家に拘(こだわ)らない。二番目の彦次郎伯父さんも一生日野の戸建て長屋団地だった。庭も有り、家賃が当時1万円でいくらまで上がったか分からないが、贅沢を言わず、家を買おうともせず質素に暮らしていた。毎日新聞社に勤めていたが、串田孫一とも交流が有り、紀行文なども書く読書家だった。夫は伯父の書いた紀行文が好きで、北八ヶ岳の小屋のウィットが効いたエピソードを好み何度も読み返していた。中野鍋屋横丁に住む長男は庶民的な酒好きで、私の父とは一番気が合っていた。伯父たちも父も山が好きで、夫を紹介した時、「山に行く奴に悪いのはいない」と言って、受け入れてもらった。

祖母の恋

明治生まれの祖父は木場の筏師で、背が高く顔も彫が深かった。そのせいか、伯父たちは皆背が高く骨格も良い。祖父は無口で90歳過ぎまで生きた。祖母は早く亡くなり、私は全然知らないが、良家の子女で、当時の平塚雷鳥や伊藤野枝のような「新しい女」だったようだ。私は筏師と「新しい女」と言う奇妙な組み合わせが納得行かなくて、勝手に大恋愛だったのではないかと想像する。いなせな男前の祖父に祖母が恋をしたのだろう。私の母の時代でさえ、まだお見合い結婚が主流なのに。祖母の実家は輸入品などを扱っていたらしく、母はいつもモダンな服を着ていたと母の友人から聞いた。今のグッチなどと関係がある流れらしい。

豊洲の伯父の老後

三番目の伯父には子供が居なかった。伯母に先立たれてからは1人暮らしを続けていた。だから母が時々、煮物などを作って届け、家を片付けて来ることが多かった。しかし母は国立、伯父は豊洲であるから、頻繁という訳には行かない。それでも伯父にはルーティーンがあった。店に出ていた頃の様にバスで銀座に行く。そして松坂屋に行って、ホテルオオクラのパンを買う。そして譲った店に寄って見る。

95歳を過ぎて、伯父は甥か姪に面倒を見て貰いたいと考えだした。伯父には姪が3人、甥が2人いる。独身なのは、私の妹だけだった。経済的に困っていた妹には、渡りに船だった。伯父はまだしっかりしていたが、妹と暮らす頃には、ボケも少し有ったらしい。妹は伯父に伊豆修善寺近くの温泉付きの中古の家を買わせ、一緒に住みお金を管理した。

伊豆市の老人ホーム

伯父は戦争に行かずに済み、戦争中も暮らしに困らず、不幸とは縁が無かったと言う人だ。幸せな一生だったのだ。私は、伊豆へ行った事までは知っていた。しかし、夫と妹はそりが合わず、私と妹は絶交状態を何十年も続けている。その後、伊豆市の特養老人ホームから電話が掛かって来た。伯父がそこで世話になっていると言う。妹が厄介払いして、そこに入れたのだ。私は、早速会いに行った。私は、伯父が豊洲に居た頃、少し世話をしていたことがある。その頃私たちは、晴海のトリトンスクエアーの隣の公団、高層ビルに住んで居た。

私は、週2回~3回伯父の家に行き、一緒に近くの病院へ付き添って行った。伯父は耳が悪く、病院で名前を呼ばれても分からないからだ。彼は病院へ行くのにもきちんとネクタイをして、ジャケットを着て行った。おしゃれなのである。クローゼット代わりの押し入れに洋服がびっしり詰まっている。病院の帰りには、スーパーで買物をし、お掃除をして帰った。豊洲にモールなどが出来る前の話だ。

伊豆市の特養は、出来たばかりでとても綺麗だった。そして伯父は4畳半位の洋室に1人で入っていた。私はシュークリームを持っていったが、伯父は喜んで食べてくれた。しかし、頭は大分ボケて来ているようで、私が身内だとは思っていても、名前が良く分からないようだった。施設は新しいから、清潔感が漂い、中の老人たちが勝手に出られないように、廊下で何か所か閉まって出られなくなっていた。伯父は97歳にもなっていたから、優先的に入れたようだが、地方はそれほど混んでいないようだ。伯父も居心地は悪くなさそうで、支払いの事だけを気にしていた。「誰が払ってくれるんだい」と何度も言っていた。ボケてはいても、伯父はまだしっかりしていて、施設でも手が掛からないようだった。私は、それから何回かそこへ行った。伯父は不幸そうではなかった。妹より、施設の人の方が優しいのだろう。

最後の銀座

ある日、銀座4丁目の交番から電話が掛かって来た。驚いた事に伯父が居るというのである。何が何だか分からなかった。伯父はネクタイをして、ジャケットを着ていたが、足は素足にサンダルだった。あの施設をどう抜け出して、お金も持たず電車に乗り、銀座まで来ていたのか。そのなぞは未だに解けていない。ただ、うちの連絡先だけを持っていたらしい。伯父はどんなに銀座に来たかった事だろう。彼は50年以上、ここで暮らして来たのだ。私たちは時々、伯父にステーキをごちそうになり、バーテンさんで有名な老舗クールバーにも連れって行ってもらった。伯父は、この銀座の空気をたっぷり吸っただろうか。心配していた施設の人が銀座まで迎えに来た。

ダンディな伯父は銀座に良く似合う。神が導いてくれたのだろうか。それから1年位して伯父は亡くなった。百歳までは生きなかった。

前の記事次回に続く