癌ステージⅣを5年生きて 95

散骨の風ディレクター KYOKO

天才だった友だち

私が彼女と知り合ったのは、国立の紀伊国屋でコーヒー豆を売るバイトをしていた頃だ。彼女は女子美の大学生だった。長い黒髪に切れ長の目、細い鼻、上品な口、平安時代のお姫様の様に綺麗だった。見かけによらず、気さくで男っぽく、バイクなどを乗りこなし、長い髪にバンダナを巻いて、颯爽と50㏄バイクに乗っていたのが印象深い。先日書いたバルセロナのサグラダファミリアは彼女によって知った。

彼女はストレートで、飾らず何でも話してくれた。だからかなり年上の離婚歴のある男性と結婚するときも相談してくれた。そして、親の反対を押し切り、女子大生で中年の建築デザイナーと結婚した。その時、彼女の家に行き、サグラダファミリアの白黒写真を見て、ガウディを知ったのだ。旦那様は、ガウディを崇拝していて、彼の造った物にもそれが表れていた。

国立で互いにバイトをしていた頃、彼女は小さな人形を作り、秋の天下市で売っていった。それは紙粘土でボディを作り、色を付けた物で、見た事が無いような繊細な顔をして、可愛いドレスを着た美しい人形だった。私は1500円で1つ買い、友だちのためにもう1つ欲しいと言ったが売り切れてしまった。彼女は、また作ってくれると言うので、買った人形は友だちに上げてしまった。その人形が縁で、旦那様と知り合ったのだ。彼の家に本当のアンチックドールが有り、その洋服がボロボロになったので、作り直して欲しいと頼まれた。

彼女はやがて本格的に人形を作るようになった。後に球体関節人形と言われるようになるが、四谷シモンとか辻村寿三郎とも違う、彼女独特の素晴らしい人形が出来た。細部に拘(こだわ)り、彼女の感性を見事出したそれは、魂が籠っていて存在感が凄い。最初は劇団民芸の演出家滝沢修に認められ、舞台と共に全国を回った。彼女は子供も生まれ、その子にそっくりの人形も作った。彼女の作風は、段々魔女的になり、それはそれで妖しく美しく凄みを帯びていった。彼女は茶道の名取の名前に変え、天野可淡となった。人形は可淡ドールと呼ばれるようになる。何度か個展に行った。私の約束の人形は出来ず、もう作品の値段は、60万円を越えていた。

そして、11月1日彼女は中央高速をオートバイで走り、事故死した。37歳だった。旦那様と女の子が残された。遠くなっていたけど大事な人を亡くした。今は伝説となり、数多いファンから慕われ、実に天才だったと言われている。私も最近彼女の書いた詩を読んで、才能の凄さに感動した。本当に内面の深さに驚き、凄い物を内に秘めていた事を感じた。何かそんなオーラはあった。生きていたら、どれ程魅力的な畏(おそ)れ多い物を作った事か。中央高速を走っては、綺麗だった彼女を想い出す。

NYの美しい人

私たちがニューヨークにヨットで着いた時、1度東京に帰らなければならない事があった。まだ、ホテル暮らしの頃だ。猫のグリを連れて帰るには、飛行機が長くて可哀想だった。それにすぐに帰って来る。それでNYの日本人の友達に相談した。すると知人に聞いて見てくれると言う。そしてOKだったので、グリを預け日本に帰った。前にもアラスカの日本人家族に2日位預けた事があった。その時は子猫で、預かって下さった家でも男の子が2人いて大人気だったようだ。今回グリはまだ子供だが、元気なやんちゃ盛りだ。帰ってみると、グリは元気だったが、預けた家で威張っていて、我が物顔に振る舞い、その家の猫ちゃんが、気が弱くて隠れて出て来なかったそうだ。グリがご迷惑をお掛けし、申し訳ありません。

理想の女性

私たちは日本のお土産を持って彼女と会った。彼女Tさんは、やはり日本的な美人だった。髪も長く、日本美人としてモテるだろうなと言うのが第一印象だ。落ち着いていて、知的で上品でとても感じが良い。初対面でTさんを好きになった。彼女も凄い人だった。英語は、勿論、ドイツ語とインドネシア語が出来ると言う。博多の出身で、日本のテレビ局のフリースタッフを2社掛け持ちでやっていた。だから情報通で、NYの美味しい穴場レストランやバーを知っていた。天然な所がある人で、お酒を飲みながらでもウトウトと寝てしまう。しかし、お嬢様育ちらしく、アクセサリーも真珠以外は付けないと言うし、家具などもルイ王朝風の物を好んだ。Tさんは普段使いにケリーバッグを持っていた。私はブランド物に疎(うと)いので、ケリーバッグを知らなかった。若いのに大きなおばさん風なバッグを持っているなと思ったくらいだ。彼女が酔って転んだ時、そのバッグの事を気にしていたので、初めて知ったのだ。そんな高いバッグ、私にはとても縁がない。傷が付いたらしいが、高額な事は気にしていなかった。字も非常に上手(うま)く、柔らかい和歌を書くような美しい女らしい字を書く。どこから見ても非の打ち所の無い素敵な人である。私など足元にも及ばない。年上の私が、年下の様だった。

美しき嘘

ある日、彼女を紹介してくれた沖縄出身のKのお母さんが来る事になった。Kはゲイである。パートナーと一緒に暮らしている。そのパートナーが、METに勤めていていつもチケットを取ってくれるJだ。Kのお母さんは、とても素朴な人で、そのパートナーJの事を単なるルームメイトだと思っている。それでKは芝居を打った。Tさんを婚約者という事にしたのだ。Tさんは嫌がらず協力し、お母さんをニューヨーク観光に案内してくれた。美人で気立てが良く、頭のいいお嫁さんは理想的だ。お母さんはとても満足し、お土産をいっぱい買って沖縄に帰った。Kは「親孝行したのよ」と言って嘯(うそぶ)いた。

私たちは、彼女に隠れ家的日本のバー「ホール・イン・ワン」に連れて行ってもらった。そこは、下の入口でブザーを押して顔を見せる。怪しい人だと入れて貰えない。マンハッタンにはそんなバーも多い。階段を上がり、上に行くとカウンターだけのちょっと高級なバーだった。置いてあるお酒が凄い。1杯だけという感じで、バランタイン30年を飲んだりする。このウィスキーは角がなく、まろやかで実に美味しい。私にもすんなりと飲める。免税店などで買って帰っても美味しくてあっという間に無くなってしまう。ヘネシーXOもそうだ。しかし、ここで美味しいのは、何と締めのラーメンだ。このラーメンだけ食べに来たい。ここは日本の一流企業の転勤族が良く来ている。

彼女の愛人

その美しいTさんは、前にインドネシア人の恋人がいて、インドネシア語が一番得意だという。そしてドイツ語は仲良しの従兄妹と一緒にニイチェを子供の頃から勉強していたからだと言う。それにも驚いた。しかし、彼女の泣き所は、酒癖の悪い、テレビ局部長の愛人であることだ。普段は大人しい彼がお酒を飲むと目が座り、突然、乱暴になる。家具は壊す、乱暴は振るう。彼女は夜中にうちに逃げて来るようになった。私は全然構わないが、このままでいるのは彼女にとって良くないと思っていた。飲んで居ない時の彼は、本当に大人しく、Kやうちの夫にいじめられているいい人なのだ。

恨みの明太子

結局、Tさんは不倫であるわけだし、彼と別れる事が出来た。そして、彼女は博多へ一時帰国することになった。私たちとKはTさんにお金を払うから、「明太子を買って来て」と頼んだ。ついでにカラスミと瓶詰のウニもと。私たちはとても楽しみにしていた。温かいご飯で明太子、まさにご馳走だなと。10日して彼女が帰って来た。「お帰りなさい、どうだった」と。「うん、とても楽しかった」と彼女は言った。それでお終(しま)いだった。私たちは何も言わなかった。お土産を催促していると、受け取られるのが嫌だったからだ。荷ほどきも有るしと、しばらく待った。だが、音沙汰がない。忘れてしまったとは思えない、あの頭の良い記憶力の良い彼女だ。もうしばらく待った。何だか狐につままれたような気がした。私たちは、真剣に頼んでいたのに、きっと冗談だと思ったのだ。それからも彼女に会ったが、悪びれた様子も無い。私は自分が浅墓だったのだなと思ったが、こんな経験は初めてだ。

人は何を考えているか分からない。彼女は結婚し、西海岸に移った。きっと幸せに暮らしているだろう。

前の記事次回に続く