癌ステージⅣを5年生きて 69

散骨の風ディレクター KYOKO

世界を廻るヨットマン

26フィートのヨットでも冒険家なら、日本を出て世界を廻るかも知れない。私たちの前にも世界一周した人は何人もいる。でもほとんどが30フィート以上だ。男の子2人を連れて、家族でイギリスを目指した清水の人もいる。1人で鹿児島を出て南米で結婚した人もいる。みんな変わり者でも普通の人だ。その中にオケラグループがあった。個人タクシーの運転手をしていた多田さんもそのメンバーで、家を売って、車も売り、ヨットに変えたのだ。みんないつもお金が無いから「オケラ」である。多田さんは日本人として初めて無寄港世界一周レースに出て、なんと優勝してしまった。一番ビリを走っていたのに、前の船が皆リタイアしてしまったのだ。彼はいつもサキソフォンを積んで、いかにも田舎のおじさんという感じでとても英雄には見えない。彼が2回目に挑んだ時は、スポンサーが沢山付いた。壮行会に行き、「頑張って下さいね」と言うと、「俺、頑張らないよ、船壊れちゃうもんね」と言って、飄々としていた。誰からも愛される気の良い人だった。

ボートショーの悲劇

毎年2月に大きなボートショーがある。レーダーや魚群探知機やヨットやボートに関するあらゆる物、実物のヨットやモーターボートも展示される。多田さんのスポンサーも商品を展示していた。

しかし多田さんは、その時既にこの世の人では無かった。2回目のレースは、船の調子も良くなかったのか、多田さんは窮地に立たされていた。スポンサーには、ボートショーが終わるまで、リタイアしないでほしいと言われていた。多田さんは、オーストラリアの友達の庭で自死してしまった。辛い話である。長距離を行く日本のヨットマンに大金持ちはいない。でも、自分でお金を作り夢を叶える。やはりスポンサーを持ってはダメなのだ。プレッシャーが大きく成るだけだ。私たちはそんな事を考えた事は無いが、つくづくそう思った。今は、多田さんの弟子と称して有名になった人もいるが。

ヨットを買うために

私たちがデザイン会社を始めて、夢が叶うまで15年近く掛かった。何事もそんなに簡単に行く訳がない。その間に年を取り、いろいろなトラブルが起こる。しかし、何が起きてもヨットで世界一周という夢は変わらず絶対に実現させるという意思があった。それにしても運が良かった事は大きい。意志だけではどうにもならない事がある。

私も夫もデザイン業界は未経験だった。器用な夫は、山で遭難した友達の形見のカメラと私のボーナスで買ったニコンとの2台を持ち、勝手にカメラマンと称して仕事を始めた。その夫と一緒に働くには無器用な私は何も出来ない。そんな時、夫の友人のデザイナーから、「写植屋のAさんは、女性なのに家で働いて月60万円も稼ぐんだよ」と聞いた。そして「丁度彼女が機械を買ったから、1人習いに行く権利があるんだ、お弁当付きだよ」と言われた。お弁当に心が動かされたかも知れない。でも本好きの私には、文字を拾う仕事が向いている気もした。月に60万円稼げれば、ヨットも夢ではないと思われた。そうなれば5年か6年で夢が叶うかもと。45年前、私が25歳の時だ。しかし60万円と言うのは、かなりのベテランだから出来るのだ。学校を出ただけで、いきなり独立など無理も無理、実務を学ぶためには勤め無くてはダメだった。とてもとても甘い私たちの「捕らぬ狸の皮算用」だった。

恩人との出会い

学校を出て最初に勤めた会社は、幼児誘拐猟奇事件で有名な宮崎勤がいた印刷会社だ。でもそれは私が辞めてからの話である。しかし、その時は意地悪な非常に嫌な先輩がいた。だから長く続かず辞めてしまった。もう、すぐにでも独立して家でやりたかった。そんな時、夫が営業に行った八王子の小さな印刷屋さんで、挨拶をすると、「あんた、陸軍の敬礼をするね」とそこの社長に気に入られた。その人は旧日本陸軍のパイロットだったのだ。そして「写植機を買うなら紹介してあげるよ」と言われ、300万円の写植機のローンの保証人になってくれた。その言葉がどれほど有難かった事か。初めてあった人に信用されたのだ。夫は若い頃好青年風で、高齢者によく気に入られていたのだが、その恩は一生忘れない。私は初めての大きな借金に死んでも返すと覚悟した。昼も夜も働き、仕事が無ければバイトもする、そんな気持ちだった。

もっと大きいヨット買って

そして、26フィートのヨットまでは買えた。しかし、冒険では無く安全に世界を廻るには、やはり30フィート以上が必要だと思われた。私たちの会社も少しずつ軌道に乗り、仕事も増えたが、ヨットを買うのに出せるのは、せいぜい1千万円位までだろうと思った。私たちは家も持っていない。それでも夫の「もっと大きいヨット買って」の洗脳的作戦は続き、私の耳のタコは深海に住む巨大だこのようになっていた。「ヨット買って」「ヨット買って」「ヨット買って」。

私は、夫の笑顔が好きだ。美味しい物を食べている時、欲しい物を買った時、それが見たくて私は何でもすぐ買ってしまう。車もオートバイも絵も時計も器も。だから随分働いた。スタッフも仕事も好きだった、資金繰り以外は。ヨットも買えればすぐにでも買いたかった。でも、最終的なヨットが買えるまで、12年位掛かった。

大きすぎるヨット

とにかくそれがスタートだった。そして12年後、世界一周して日本に来たと言うカナダ人に会った。それもヨットを通じて知り合ったフランス人、ヨットで来た彼の紹介だった。カナダ人は女性で学校に行く子供2人と休暇が終わる夫は、先にバンクーバーに帰っていた。彼女はヨットを日本で売るために残っていたのだ。大きめの38フィート、世界一周した船だから装備は皆付いている。ガスストーブやコンロ、デッキにバーベキューコンロまで付いていた。3ベッドルーム、冷蔵庫、オーブン、電子レンジ、温水シャワーまで付いている。なんという素晴らしい話だろう。値段もキャッシュで1千万円。飛び上がりたい気分だった。私たちはヨットについてはまだまだ素人同然だったから、それが妥当な値段か分からなかった。取り敢えず26フィートのヨットを売りに出したら、買った人が私の高校の先輩だった。私には本当に奇遇が多い。そのお金に手持ちのお金を足してとにかく買った。このチャンスを逃したら、いつになるか分からない。日本を出られるのだ。これ以上の話があるだろうか。友だちになったフランス人のアランも船を保証してくれた。私たちはこんな話が転がり込んで来るなんて、想像も出来なかったから、精々30フィートのヨットを考えていた。船の中には、4歳と6歳の男の子たちが遊んでいた、Mr.ホワイトベアーとMr.ブラウンベアーが残されていた。ホワイトベアー氏とブラウンベアー氏は多少傷ついているが、今も私たちのリビングに他のぬいぐるみと一緒に座っている。

私たちの旅

私たちは、冒険ではなく旅を楽しみたかった。私は若い頃から外国に憧れ、あっちこっち行きたかったから、出来るだけ多くの場所に行きたかった。それに今にして思えば、40歳と言う年齢で動けた事は最高だった。それより若くても年を取っていても違ったと思う。もちろん働き盛りを遊んで過ごすのは言語道断かも知れないが、人によって一番良い年齢を何に使うかは、人生の目的によって変わる。人生は出逢いだ、出逢いこそ人生の醍醐味だ。人だけでなく、あらゆる物との出逢いが人を変える。犬も歩けば棒に当たる。何に当たるかは分からない。今の仕事もあの旅が無ければ、していたかどうか分からない。仕事は年を取ってからでもその年なりに出来る、もちろん遊びや趣味もそうだ。自分の人生、思うように使えたら幸せだ。

前の記事次に続く