癌ステージⅣを5年生きて 75

散骨の風ディレクター KYOKO

ヨットの旅の終わり

結局私たちは、ニューヨークに着くと、疲れたのと街が好きなのでしばらく住む事にしてしまった。友だちもいるし、ニュヨーカーとして生活をしてみたかった。どちらかと言えば、夫は短い旅行は好きでは無く、現地でのんびりするのが好きなのだ。でも、あちこちでそれをするのは、贅沢なだけではなく、何年も掛かってしまう。彼はそんな風な気儘な生き方の人だ。でも現実には、いろいろな問題が有り、お金の事はいつも心配だった。彼といると「ボニーとクライド」(映画「俺たちに明日はない」)にでもなってしまいそうだ。だから、もし続けてヨットで行っていれば、ヨーロッパの各地でも長居したろう。しかしヨットの旅は、カナダの東海岸に行き、ニューヨークに戻って終わった。なぜならハドソン川の泊地で、マストに雷が落ちて半分水没し、北アメリカ大陸一周しか出来なかった。雷が落ちた時は、日本に居たのでしばらく知らなかった。自慢では無いが、寄った港の数や町は、世界一周のヨットより多いのでは無いかと思う。世界一周と言っても大抵はすべての国に寄るのでは無いので、寄港地は多く無いのだ。

世界一周格安飛行機チケット

ヨットの旅を諦めていた時、ルフトハンザのビジネスクラスで世界一周格安チケットの広告が目に入った。有効期限は無かったと思う。フランクフルトを経由して地球を廻って6か国に寄り、約36万円位だった。私たちは毎月、東京、ニューヨークを往復していたから、全日空のマイレージが貯まり、格安チケットがアップグレイドして、いつもビジネスクラスになっていた。やはり、エコノーミーとは全く違い、本当に楽だった。だからルフトハンザもビジネスクラスに惹かれた。そのうちの1回は東京からニューヨークに使った。1回で周らずバラバラに使ってもいいのだ。そして次には、ニューヨークからイタリアに行こうとしていたが、夫の母が喘息で急死した。寝たきりになって居たお父さんの介護にも疲れたのだろう。私たちは、夫の妹たちが両親のすぐ側にいるのをいいことに遊び続けていた。そしてその頃、夫はお母さんを避けるようにもなっていた。何かの拍子にお母さんが、お父さんの事で愚痴をこぼし、お父さんを大好きだった夫は酷く傷ついたのだ。それでも仕送りだけは、事務所から送っていた。義母の死によって、イタリア行きは延期になった。

義母の葬儀

9月27日、自宅で座ったまま倒れているのを末の妹が発見した。でも、遅かった。私たちはたまたま日本にいた。葬儀は兄弟とその連れ合い、孫だけで行われた。姑は準備万端だった。倶知安の菩提寺にお墓も買い、生前に戒名をお父さんのと二人分貰い、お経もテープに撮っていた。そこのお坊さんの声が好きだから、そのお坊さんのお経がいいと頼んであったのだ。年を取り、雪掻きが大変になったので、北海道の家は、人に貸して東京の娘の側に出て来ていたのである。

通夜も葬儀も住んでいたアパートで行われた。そして遺骨はすぐに倶知安のお寺に納骨した。その寺は、お義母さんの実家の菩提寺だった。お義母さんのお墓は、本堂の中の納骨堂に有り、コインロッカー位の大きさだった。雪が積もる北海道では、冬のお墓参りが大変だからだ。久しぶりに北田一族が集まった。お姉さんは慶応大学の仏文科を出ていた才媛で、マルマンの商社に勤めていた鹿児島生まれの人と結婚していた。彼らは、転勤でモナコに住んで居た事もあり、それこそ華やかな生活をしていた。しばらく昔話に花が咲いたが、北海道の家を巡り、姉夫婦とだけ意見が合わず、最終的に喧嘩別れになってしまった。

旅人のローマ、トスカーナ

私たちは1カ月遅れで、ニューヨークからフランクフルト経由ローマへ行った。ローマでは、ガイドブックで見つけた素敵なホテルに予約を入れて有ったが、飛行機の荷物が届かず困ってしまった。私たちは、ニューヨークでは、強盗やスリに遭う心配をしなかったが、ここでは少し緊張し、かなり用心した。ローマには泥棒が多いと聞いていたからだ。次の日に着くという荷物を待つ間、私たちは馬車で市内を観光した。調子のいい御者に気を付けてはいたが、結局、料金はボラれた。観光のメッカ、スペイン広場はホテルから近く、「ローマの休日」のように名所をあちこち回ったが、映画の2人の様にベスパでは無く、タクシーだった事が残念だ。ローマからはレンタカーを借りたが、憧れのアルファロメオはマニュアル車しかなく、やはりオートマに拘(こだわ)りオペルにした。フィレンツェ、ピサの斜塔などトスカーナを廻り、ミラノ、ヴェネチアまで行った。トスカーナでは石造りの小さなBB(ベッド&ブレックファースト)に泊まったが、イタリアの田舎らしい雰囲気の家がとても良かった。収穫の終わったブドウ畑を横目で見て、本当はトスカーナワインの新酒が飲みたかった。でも季節は晩秋、1カ月遅れで終わっていた。

イタリア北部

ミラノの大聖堂の前で、ロマのスリに遭いそうになったが、タッチの差で避(よ)けた。その頃はケチャップを服に掛ける、子供を使うなどの手口が流行っていた。それらしい人には極力気を付け、カバンも離さず、しっかり握っていた。ヴェネチアは、もう言う事が無いくらい素晴らしい。しかしそれ以上に是非来たい理由があった。塩野七生作「海の都の物語」だ。この本は、ヨットの先輩で、個性的で超格好いいご夫妻から、出港前にプレゼントされた物だ。ヴェネチア共和国の歴史が書いてあるが、海の国ならではの澪標(みおつくし)作戦が、実に面白く興奮した。その海を見てみたかった。

実際に街に入ると、車が走って無いのがいい。路地が多く、いくらでも歩ける。バルのつまみは、少し塩辛いが、雰囲気がいい。酔ったおじさんがイタリア語で何か話し掛けてくる。イタリアと日本は戦争中同盟国だったと言っているらしかったが、全然分からない。ホテルの窓から見える水の風景に、水は濁っているが、「私は、水の都に居るのよ」と言いたくなる。ゴンドラに乗っていくつもの小さな橋をくぐり、両脇の水の上に建つ古い家々は、シェイクスピアの時代を彷彿とさせる。ゴンドラ漕ぎが歌ってくれないので、自分たちで「サンタルチア」を歌って勝手に盛り上がった。

前の記事次に続く