風の中の私 9

──やっぱり懲りない書く事は──

奇異にして淫蕩なる音楽

今頃、夏が終わると秋の文化祭が近づき、私が高校1年の時の事を思い出します。演劇部に所属していた私は、役者と裏方で効果音を担当していました。役の方は前に書きましたが、主役次郎の乳母です。部員の数が足りないので、みんな表も裏もやっていました。何しろ2年生が2人、3年生は受験なので、ほとんど出て来ません。演出と役に付いた先輩は、浪人覚悟で出て来ていました。1年生は7人が同じクラスで、もう1人違うクラスの女の子がいました。脚本は三島由紀夫の「近代能楽集」より「邯鄲(かんたん)」でした。中国の故事、「邯鄲の枕」の話が元になっています。主人公の乳母がそのいわくの枕を持っていて、その枕で寝た主人公が一生の夢を見ると言う話しです。故事では、お粥の炊ける間に一生の夢を見て、虚しくなり、何処かに行ってしまうという話ですが、ここではハッピーエンドになっていました。この戯曲はその20年以上前に先輩たちにより上演され、全国高校演劇コンクールで優勝したものでした。その頃の先輩には、プロになった名古屋章氏、渥美国泰氏がいました。

1年生16歳の私たちには、解らない事だらけで、口で説明されてもほとんど理解できませんでした。例えば、私のセリフ「菊は、その枕で操を守ったのでございます」と言うのも何のことか全然分からずに言っていました。昔の女の子は、今よりずっと幼く、性についても全然分かっていませんでした。3人の踊り子役も、本当は色気たっぷりの役どころだったのでしょうが、演出も無理だと諦め、無邪気な3人娘になってしまいました。でも、美女役の3年生はさすが凄かったです。本人もその役を演(や)りたかったのか、色気満々でした。私たち1年生は、18歳ってすごいと思いながら只観ていました。

そして何よりも解らなかったのは、ト書きの「奇異にして淫蕩なる音楽」です。私と相棒のNさんはどうとも想像が付きませんでした。それで、直接聞いて見ようと言う事になり、三島由紀夫の家に電話を掛けたのです。電話はすぐ繋がりました。でもお手伝いさんが出て、「先生はご旅行中でございます。」と、体よく断られました。当たり前ですね。仕方なく、大先輩に助けて貰う事にしました。知らないとは恐ろしい事です。後から先輩に散々叱られました。私たちは、重いテレコ(リール型テープレコーダ)を持って、原宿の大先輩の家を訪ねてしまいました。当時の原宿は静かで広い道に立派な並木のあるとても素敵な住宅街でした。通りも並木もそのままですが、雰囲気が全く違います。なんて素敵な所と思いながら、交代にテレコを持ち、暑い真夏の太陽の下を歩いて行きました。大先輩は、「黒猫のタンゴ」で、大ヒットをした作曲家小森昭宏さんです。彼は優しく迎えてくれて、私たちが困っている事を言うと簡単に作曲を引き受けてくれました。お陰で音楽は素晴らしくなりました。

私たちは、夏休みも放課後も稽古稽古、そして音集めです。装置の手伝いでは、用務員室で、大鍋に小麦粉と水を入れて糊を作りました。そしていつも夜食には、大袋に入ったパンの耳にコロッケを挟んでを食べました。
 「乞食と役者は、3日やったら止められない」と言いますが、芝居が終わり、緞帳が下りた時の気持ちは、本当に味わった事の無い人には解らない夢の絶頂のようなものが有りますね。

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