カウンセラーの手記

Hさんの遺品整理

長いつきあい

10年以上前に散骨の生前予約をなさっていたHさんが、5月に亡くなった。80歳だった。奥様が亡くなって一人残ったHさんは、自分の終活を考えるようになった。奥様の散骨当時、本人は大腸ガンの闘病中ではあったが、お元気で一緒に船に乗られ、自分は石垣島が良いと言っていた。
その後呼び出され、具体的な自分の葬儀について相談された。訪れた場所は、超高級老人ホームだった。私は、一度そのホールで散骨について講演をしたことがある。疎らに集まった老人たちは、みな感情が表に出ず眠そうだった。そのホームで私たちはHさんに会い、午後で人が居ない広い食堂でコーヒーを何杯も飲みながら葬儀や散骨の話しをした。

石垣島

子供も無く、親せきは付き合いのない甥が遠くに一人いるだけという事で、死後の一切を私たちに託したいという話しだった。彼にとって一番大事なことは、石垣島の川平湾に骨を撒いてほしいという事だったのだ。そして誰にも迷惑を掛けたくないという事も。その頃には、私たちはHさんとかなり親しくなり、信頼されていた。クリスマスに新宿のスナックで一緒にカラオケなどをし、はしごしてゴールデン街のバーにも行った。Hさんは本当に楽しそうに、若いころ通った石垣島の思い出や好きな日本映画の話などをなさっていた。

Hさんと言う人

彼は引退するまで、昼は小学校の用務員さんをやり、夜は銀座でバーテンダーをしていたという話だった。それは、元々裕福で当然のごとくその豪華老人ホームに入っている人たちとは違い、一生懸命働いてお金を貯め、そして老後をのんびり優雅に暮らしたいという庶民の姿が映っていた。確かに彼は、施設に居ても他の人たちとは違った。飾りっ気がなく作業服のようなジャンパーに角刈りの彼は、何か職人さんか大工さんという雰囲気で、周りには溶け込まず友だちもあまりいないようだった。
そんなHさんを私たちは、質素に暮らしている老人と思い、葬儀から散骨、遺品整理まで、50万円で引き受けてしまった。本当なら、生前の予約の人からは、絶対にお金を預からない。それでもどうしてもという彼の頼みを断り切れなかったのだ。

ゴミに掛かる手間・費用

葬儀代は当時に比べ、大分安くなった。しかしその頃は、遺品整理という事も今の様ではなく、私たちは家具を売って、ごみを出せばいいだろう位に考えてお金も貰わなかった。それが今、コロナの時代に入り、状況は一転した。まだ綺麗で十分中古で売れる3ドア冷蔵庫は、引き取ってもらうのに1万8000円と見積もりされた。ベッドは引き取ってくれればいい方だとも言われた。
すべてそんな調子で、1LDKのHさんの部屋は家具だけでも捨てて貰うのに10万円以上かかり、電気工事など部屋の修復代、ゴミ捨て代などとんでもない費用が掛かった。その部屋は、綺麗に整頓されてはいたが、高級な洋服の山、数々のDVD、ティッシュやトイレットペーパーなど生活必需品の途方もない量の買い置き、大量のクスリや通販のサプリ、ダイレクトレクトメールの束。何より彼は物を捨てない人だった。空き瓶一つ、スーパーの袋1枚綺麗にしまってある。押し入れや物入れ、たくさんの引き出し、出るは、出るは。後見人の弁護士から、本人の名前がついているものは全てシュレッダーしてくれと頼まれていたからたまらない、ダイレクトメールの名前を刻み、種類ごとにゴミを分け袋に入れる。私たち2人に義妹を巻き込んで、2日でも終わらない。粗大ごみも残っている。男の一人暮らしを甘く見ていた。

心打たれる人柄

しかし、この遺品整理にあたり、いろいろな彼の知らなかった面が見えてきた。
想像以上に素晴らしい人だったのだなぁ!とすっかり感動してしまった。彼は引退してからか、日大経済学部の通信教育を始め、しっかり卒業している。私も50歳過ぎってから、放送大学に入り卒業したが、もっと上を目指すべきだったかなとも思った。彼は向学心に溢れ、中学生の英語からやり直し、中国語もかじり、読書に勤しみ、習字にも励んだ。男らしい男性に憧れ、高倉健やシルベスター・スタローンが好きだったが、一生懸命自分を磨き、最後まで前向きに真面目に生きていた。

川平湾へ

毎年冬になると、ティッシュの箱いっぱいに、割った銀杏を図解の食べ方も入れて送ってくれ、猪の肉も友達が獲ったのを分けてくれた。お酒と映画と石垣島を愛したHさん、来月私たちは川平湾に行きます。
そうそうHさんは自分が死んだら、残ったお金は貧しい国の子供たちに寄付をすると言っていたが、そんなに多くを持っている人だと思わなかった。今回、数千万円が寄付されるそうだ。

(2020/06/30)