お客様の声・風の声 2003年3月
2003/03/30 春、日本海、そして親不知
2003/03/19 我が青春の・・・花嫁
2003/03/19 梅は咲いたか
2003年3月30日
春、日本海、そして親不知
3月も残り少なくなった日、春の陽射しに桜の花が目を覚まし、華やかな色が町に溢れ出していた。
私たちは、関越から上越へそして北陸と、日本海へ向かっていた。妙高の山々は、まだ真っ白、久しぶりに雪の山脈を見た。そして何年ぶりの新潟だろう。認識浅く、新潟行きが決まった時、必死に車のチェーンを探したがこの時期もう店にはなかった。でも、結果的には良かった、全く必要なかったのだから。それに目指した日本海西頚城郡能生町は、真冬でもそれほど雪は積もらないとか。
今回は、初めての日本海での散骨である。船に乗りなれている私たちも、太平洋は日本の近海ほとんど廻ったが、関門海峡から北は、昔佐渡へフェリーで行っただけである。それに冬の日本海の恐ろしさをよく耳にしている者にとって、春先の海もかなり不安であった。
真冬のコートに厚着をして、能生町に着くと、予想に反し、暖かな春の陽射し、人々も軽装で、ブラウス姿の女の子も見かける。風もなく、海も穏やかである。正にラッキー、1回でこんな日和に恵まれるなんて。
「頑固者だったというおばあちゃん」の意志をどうしても叶えてあげたいという、若い兄弟の願いが通じたのだろう。韓国に近い海へというおばあちゃんの望みどおり、ご遺骨は日本海に還された。ご両親がいらっしゃらない兄弟にとって、おばあちゃんの存在は、かけがえのないものだったに違いない。仕事が忙しいので、新幹線で日帰りというスケジュールの中で、彼らはしばし故人を偲び、思い出に浸り、春浅い日本海を胸の中に納めていたようだ。
そして私たち、能生町に来て気がついたのだ、ここは不親知の側なのだと。不思議なことに最近、70年代の始めのことが蘇って来ることが多い。この間の「花嫁」の曲に続き、先日は、合同散骨で「時には母のない子のように」をおかけし、思い出の地「親不知」まで来てしまった。ここは、いろいろ私たちにとっては、曰くがあり、新婚旅行に訪れた場所でもある。
その前、丁度32年前の4月6日、2人での初めての旅行が「親不知」であった。その頃、2人共八方尾根のスキー場でアルバイトをしていて、休暇で行ったのである。その日は彼の誕生日であった。本当は能登まで行きたかったのであるが、お金がなく、大糸線に乗り、糸魚川から親不知に出た。『親不知』といえば、水上勉の『越後つついし親不知』、この本を片手に地名を辿り、ひたすら歩き、最期はヒッチハイクという、本当に青春、青春真っ最中だった。
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2003年3月19日
我が青春の・・・花嫁
今回委託でお預かりしたもう1つのご遺骨は、90歳で亡くなられた男性のものであった。亡くなられてまだ日も浅く、奥様は名残惜しい気持ちが強そうで、いろいろ迷われていらっしゃることもあったようだ。やはり、ご高齢でいらっしゃるし、船までも遠いので、せめて見送りたいというお気持ちもおありだったが、結局お出でになれなかった。
最初に電話でお受けしたときに、どんな音楽をお流ししましょうと聞くと、すぐに、「題名は分からないんですけど」とおっしゃって、「はーなーよーめは、夜汽車に乗ってー」とお歌いになられた。私も「アー」と思いあたったが、タイトルは、何だったんだろうと思ってしまった。でも、非常に懐かしく、当時好んでいた曲であった。
でも、当時、60歳くらいだった故人だが、どんな思いがあったのだろうか。よく口ずさんでいたらしい。
今回、おかけするに当たり、そのCDを探し、そうだ「花嫁」はしだのりひことクライマックスだったと思い出し、さっそく聴いてみた。1971年というその時代、正に青春真最中だった私(カウンセラー)、涙が溢れて止まらない。丁度、結婚しようとしていた時で、北海道生まれの主人の所にお嫁に行く私の心境にぴったりはまっていた。北海道だと海を越えるから、歩いては帰って来れない、などと思ったものだ。幸か不幸か、北海道に住むこともなく、1度も実家に帰ることもなく、30年が経ったが、その頃の真摯な思いが妙に懐かしい。
そして、今回の委託散骨には、体験散骨として、これからお母様のご遺骨を散骨なさろうとしていらっしゃるSさん兄妹が、同乗して立ち会ってくださった。実際にご遺骨をお持ちで、あらかじめ体験して決めようという方は初めてだったが、具体的な体験でいろいろ納得なさったようだ。その場で契約された。
散骨を周囲から反対されたり、迷っていらっしゃる方は、実際に体験なさることがお勧めである。基本的には月2回の合同散骨に参加していただけるので、日程が合えば連絡いただきたい。将来の自分の散骨をお考えの方にも参考になると思う(体験散骨、一名五千円)。
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2003年3月19日
梅は咲いたか
先日、お年寄りの2人暮らしの内のお1人がお亡くなりになり、以前に弊社で委託散骨なさった方の紹介で連絡を受け、ご遺骨をお預かりし、散骨をすることになった。
芸者さんだったという故人は、生涯独身だったらしく、養女の方とお二人で暮らしていたらしい。生前は、日本も高度成長期で、新橋や銀座辺りで華やかに活躍されていたことと思う。
私(カウンセラー)の実家では、親戚に芸者の置き屋をやっていった人がいて、私の父は次男だったため、そこへ一時養子に行っており、色々いい思い出が有ったようだ。戦後、長男の戦死で、また生家に戻ってきたわけだが、その養母だった人を引き取り、実母亡き後、一緒に暮らしていたのだ。だから私も三味線や日舞、着物といった生活に縁があり、無芸ながらまんざら嫌いな世界ではない。
また、ニューヨークにいた頃には、元新橋の芸者喜春さんとも交流があり、結局習えなかったが三味線を預けたままになっている。
今回、委託で音楽なども任されて、とにかくお三味線の曲ということで、色々悩み、私の手持ちのCDで、地唄、端唄、小唄、長唄と何度も聴いて、「雪」「春雨」「夜桜」を候補にしたが、最期にやはり、これだと「梅は咲いたか」にしてしまった。
桃屋のコマーシャルでもすっかりお馴染みになっていて、少し気がひけたのだが、正に今の季節、桜を待ちながら、屋形船で柳橋から舟遊びに出るという文句が、実にぴったり来たのである。きっと彼女もお座敷での華やかな頃を思い出してくれたのではと、かってに思っている次第である。
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