お客様の声・風の声 2003年5月
2003/05/30 黒潮本流にバランタイン30年
2003/05/30 イルカと共に永遠に・・・10(偶然の出会い)
2003/05/22 イルカと共に永遠に・・・9
2003/05/20 イルカと共に永遠に・・・8 (飛び魚の季節に・・・)
2003/05/19 イルカと共に永遠に・・・7 (発見!イルカの大群)
2003/05/17 Sさんからのお便り(亡き妻を、90才の夫が船上から、お別れ)
2003/05/15 イルカと共に永遠に・・・6 (発見!イルカの大群)
2003/05/14 あるイギリス人の死と、イタリアンな食事・・・2
2003/05/13 イルカと共に永遠に・・・5 (発見!イルカの大群)
2003年5月30日
黒潮本流にバランタイン30年
黒潮に散骨してほしいという人は多い。だが、実際黒潮本流にこだわり、そこまで行って散骨をする人は少ない。
今回散骨をなさったIさんの旦那様は、水産関係の学校で教師をなさっていた方らしく、海に多大なロマンを持っていらしたようだ。頑固で、言ったことは曲げないという旦那様の遺言に、奥様は随分思い悩まれたことと思う。黒潮の流れは、一定ではなく毎日変わっている。そして彼女は船に乗ったことがなく、多分かなり弱いのではとの心配も。
私たちのところに連絡いただいて、始めは大島でという話になったが、「黒潮情報」を調べるうちに、やはり八丈島まで行ったほうがよいという結論に達した。なるべく船に乗っている時間が短い方が良いからだ。
この時期、黒潮はかなり蛇行していたが、丁度八丈島にかかって流れていた。東京から東海汽船でも10時間位かかるが、「オンディーヌ5」でもそれくらいは掛かり、また、船検が三宅島までなので、島の船をチャーターすることになった。幸い今回も新潟の時のように、最高の天候に恵まれ、八丈の海も珍しく穏やかだった。母港以外での散骨は、いつもに増して、天気予報に悩ませられる。
飛行機に乗ってしまえば、本当にあっけないくらい近い。飛んでいる時間は30分くらいである。八丈島が近づくと窓の外、眼下に黒潮との境目の白波が見えてきた。八丈に来るのも久しぶりである。最初に10代の頃来たときは、東海汽船で、見送りの八丈太鼓に涙したことが懐かしい。
飛行場で、Iさん一行(ご家族三人、友人二人)を出迎え、八重根港の船に直行する。空は雲が多く、海の色は良く分からないが、やはり水の透明度は抜群だ。八丈小島の脇を抜け、ひたすら黒潮本流を目指す。この日、予定より黒潮は、島から離れ、結局30分位走り、潮の境目に着き、さらに10分走り黒潮本流に入った。
流れが速いので、お花も、遺灰もすぐに遠くなってしまう。Iさんは、旦那様が大事に取っておいて、結局、最期まで飲めなかったという高級ウィスキー「バランタイン30年」を持ってきてらした。「全部撒いてしまっていいんですか?」デパートで買えば、7万円以上するはずだ。私たちもめったに飲めない。だが、本当に美味しくてつい、飲みすぎてしまうほどだ。
結局、残った人たちのために少しとっておくことにした。海にお還ししたときの、その香りの素晴らしかったこと!生きていらした時に、最期にお飲みになれなくて、さぞ残念だったことと思いますが、奥様がご遺骨と一緒に黒潮に還されて本当に満足していらっしゃるのではないかと思いました。
帰路、次男はコックピットで、長男は船首で、飛沫を浴びながら水平線をみていた。奥様は、何度も黒潮の潮目を振り返っていらした。
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2003年5月30日
イルカと共に永遠に・・・10(偶然の出会い)
「イルカのいる海」への散骨をなさったTさんは、初めてお会いした時から、何か不思議な懐かしさがあり、とても初めて逢ったとは思えなかった。先日の合同散骨の際、定員に余裕があり、もう一度海に出たいというTさんの希望で船に乗って頂いた。その日もイルカとは出会えなかったが、船を下りて一緒にお食事をすることになり、四国に行って来たお話など聞いているうちに、出身地の話になり、お互いに神田の生まれだということが分かった。
そして、では、小学校は?中学は?という話になり、小学校は当時は違っていたが、今は合併してお互いの母校が「御茶ノ水小学校」だということで、さらに中学は全く同じ「一橋中学」の同窓生であった。年もかなり近いのだ。すっかり意気投合し、盛り上がって、懐かしい校歌や千代田区歌まで合唱する始末である。
当時は本当にマンモス校で、1学年12クラスあり、地元の子より越境の子の方が断然多かった。一橋中出身の人には、いつも不思議な逢い方をする。最も不思議な偶然だったのは、アリューシャン列島のアッツ島での出会いである。
今から11年前の7月4日、アメリカの独立記念日の日のことだ。私たちがヨットで釧路を出て2週間、初めの陸地アッツ島、ベーリング海と北太平洋の間、アメリカの一番端であり、かつて日本人が玉砕した島である。ここには一般の人は住んでおらず、アメリカのコーストガード(沿岸警備隊)が20人、そして犬が1匹いるだけで、許可無く普通の人は入れない。私たちは、アラスカを目指し、旅していたのだが、海水を真水にする造水機が壊れたため、水が不足し始め、緊急入港したのだ。
そんな場所に、まさか日本人がいるなんて、そしてその人が同じ中学の2年先輩だなんて。本当に信じられない出来事だった。彼はカメラマンで、アッツ島の写真を撮るため、4年位前から許可を申請し、やっと許可が下りて、飛行機で着いたばかりだった。なぜ、ここに日本人がいるんだ、お互いにとても信じられない出会いであった。
そして、その後は、何年も付き合っていたヨットの友人が、よくよく話して見るとやはり一橋で、それも同じ学年であることが分かった。彼らも夫婦でヨットに乗り、世界一周をし、今はニュージーランドに住み着いている。さらにこの同じマリーナにいたパイロットのYさんも1つ後輩だった。
縁とは本当に不思議なもので、だから人との出会いが楽しく、生きていることが面白くなる。
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2003年5月22日
イルカと共に永遠に・・・9
Hくんの、お母さまからのお便りです。掲載の承諾を頂きました。
前略
この度は、追加コースに同乗させて頂き、ありがとうございました。小雨に煙る城ヶ島でしたが、風はもう温かく感じられました。
海面では、透きとおった胸びれを竹トンボの様にして、飛び魚が跳ねる姿を始めて目にしました。季節に敏感だったHが、海中の生き物の動きを見ているであろうと思うと、私も同じに見ることが出来て良かったナーと。また、同じく時が刻まれている事に感慨深いものがありました。
剣崎灯台~松輪沖に、マダイが寄って来ていると新聞で読みました。魚影を追って来た沢山のイルカさんと共に、海の中では賑やかに遊んでいる事と思っております。
いつも誠実な風さんのメンバーに感謝。 草々
あの、江ノ島の散骨以来、われわれ風のスタッフは、海に出る度、イルカを探している自分たちに気がつきます。Hくんのお母さまは、あれ以来、あの海域のニュースや、天気予報で海の様子をイメージしていると、仰っていました。
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2003年5月20日
イルカと共に永遠に・・・8 (飛び魚の季節に・・・)
5月19日(月曜日)、合同散骨。小雨、梅雨に良く似た気圧配置である。風・波ともほとんど無く、視界は2キロメートル程で、マリーナからは房総半島は見えなかった。
今回、散骨されるご家族の他に、4月10日に江ノ島沖で散骨された、Hくんのお母様が乗船されていた。あの日、Hくんが大好きだったイルカの姿を求め走り廻ったが、逢うこと無く散骨は終わった。4月28日に東京湾口で、イルカの大群に遭遇したと、Hくんのお母様にお伝えしたところ、是非、今回乗船したいと申し入れがあった。
小雨の、春霞の海に目を凝らして、イルカを探したが、一匹も見ることは出来なかった。しかし、今年初めて、船ベリから数匹の「飛び魚」が滑空するのを見た。まだ小さく、痩せて飛距離も短かったけれど、確実に季節は進んでいる。
「梅雨」が近づき雨や曇りの日が増えてきたが、太陽が無くとも風や波さえ静かであれば、海は独特の清涼感に包まれ、私(船長)の好きな「散骨日和」の一つだ。静かな海に雨が降ると、たちまち空気中に「マイナスイオン」が充満するのを感じる。
わが社のメニューに「故人を偲ぶチャータークルーズ」がある。少人数では予算的に大変という場合、Hくんのお母様のように、合同散骨で船の定員の許す範囲内での、新サービスを始めようと思っています。(料金はお一人様、二万円+税)
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2003年5月19日
イルカと共に永遠に・・・7 (発見!イルカの大群)
イルカの群れに遭遇した、4月28日に散骨された、Oさんからお手紙を頂きました。日誌への掲載を承諾頂きました。
前略
4月28日は、大変お世話になりました。天候にも恵まれ、父の散骨が無事に終わり、家族一同ほっとしました。
兄と姪は、めずらしいイルカの群れを見ることが出来て、大変喜んでおりました。きっと父もよろこんでいると思います。
第一印象を信じて、おまかせして良かったと思っています。みなさまにはご親切にして頂いて、本当にありがとう御座いました。
草々
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2003年5月17日
Sさんからのお便り(亡き妻を、90才の夫が船上から、お別れ)
5月3日散骨された、Sさんのご長男からお手紙を頂きました。当日、90歳の父上も同乗されました。承諾を得、掲載します。
前略
海洋葬実施証明書を、確かに受け取りました。散骨当日は好天に恵まれ、船もあまり揺れないで、良かったと思います。(私は少し船酔いしましたが・・・)
「風」さんには体験散骨の時から、私共の要望を聞いて下さり、当日も細かい配慮をして下さいまして、感謝申しあげます。
さぞかし亡母も天国で喜んでいることでしょう。また何かご縁がありましたら、その時はよろしくお願いします。
草々
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2003年5月15日
イルカと共に永遠に・・・6 (発見!イルカの大群)
5月13日の日誌を読まれた、Hくんのお母さまから、お手紙をいただきました。承諾を頂き掲載します。
前略
4月28日のKさん、緊張された中にも素晴らしい体験が出来て良かったですね。イルカの大群に剣崎沖で遭遇なんて夢のようです。もう、超々羨ましい限りです。
私も少し前の、桜の頃のあの海風、匂い、花びら等を思い出していました。駆け抜けて逝った春を想いながら、月命日にイルカグッツを買い求め、飾り付けている内に「あの海に逢いたいナー」と居ても立つても居られなくなって、風さんに電話しました。
合同の時に、もし定員に空きがありましたら、お邪魔になりません様、配慮しますので、人数の追加コースで乗船させてくださいと頼んで、OKを頂きました。
沖の潮風に当たって、Kさんの様に清々しい気持ちになって、また頑張ろうと思います。風さんに急な事でお手数をおかけしますが、どうぞ宜しくお願い致します。
草々
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2003年5月14日
あるイギリス人の死と、イタリアンな食事・・・2
K様
ご無沙汰しています。
「今日、Gさんの命日よ。」と、妻に言われ、メールを書いています。
ここ、現地事務所から、一番近い海岸に出ると、Gさんの散骨ポイントがよくみえます。我が家の老犬たちとの、散歩コースにもなっています。ご多忙でしょうが、お暇が出来たら一度、お訪ね下さい。
Gさんの、ご冥福と、皆さまのご健康を・・・・・・
5月13日、友人のKさんへ、上記の短いメールを送信した。早速、返信を頂いた。日誌への掲載の承諾を頂きました。2002年7月15日の「風の日誌」、『あるイギリス人の死と、イタリアンな食事。』も合わせてお読みください。
メール、ご丁寧にありがとうございます。私にとって、本当にあっという間の1年でした。
Gさんがご自宅で倒れてから亡くなるまでの、3年半の介護生活は大変でしたが、それなりに充実した時間だったと、今あらためて思います。自分が他の人間から心底必要とされていると感じることは、自分の人生がそれなりに価値のあるものだと確信できて、大きな喜びでもありました。
Gさんの死に身近に接して、僕も人生に対する考え方が少し変わったように思います。死というものから逆算して人生を考えると、人の一生は、本当に儚く短い。だからこそ、いとおしいのだと、切実に思えるようになりました。毎日ちゃんと生きなきゃ死んだ人間に申し訳ないですよね。
散骨の際にはお世話になりました。また一度ゆっくり食事をする機会があるといいですね。
K
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2003年5月13日
イルカと共に永遠に・・・5 (発見!イルカの大群)
4月28日に散骨されたKさんから、お便りを頂きました。日誌への掲載を了承いただきました。
剣崎の灯台をすぎてしばらくして、船長が「イルカだ!」と叫んだのです。
当日は快晴、ベタ凪の状態で、こんな日は珍しいですよと、何度もおっしゃってました。思わず立ち上がって見ると、餌を追うイルカの群れ、群れ・・・珍しいことが又おきてしまったのです。
エンジンを止め(速度を落とし・・・船長注釈)、しばらく目的をも忘れてドルフィンウオッチングが続きました。船の両側も泳いでいきました。100頭以上いたのかも知れませんね? 本日のセレモニーの始まりのようでした。
人は海から生まれるとも云われます。「風」さんの方々の、あたたかい想いの中で、自然を愛した主人を生まれた場所へ、かえしてあげることができ本当によかったと、清々しい気持ちで、家路につくことが出来ました。
本日、海洋葬の証明書が額縁に入って、送られてまいりましたので、早速、仏壇の上へ掛けました。私も是非、主人と同じ場所で海洋葬をやってほしい旨、遺言したいと思います。
本当に有り難うございました。心よりお礼申しあげます。
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