お客様の声(風の日誌)

散骨式などのエピソードを読める「風の日誌」を過去のものから全てを掲載しています。過去のものは右の目次からどうぞ。

2003年6月

2003/06/29 「風の皆様へ」(散骨された方からのおたより)
2003/06/27 真っ白な粉が海中に舞いゆく
2003/06/26 恒例になった「ジャズコンサート」
2003/06/20 桜桃忌、そして様々な死
2003/06/12 散骨のご遺骨
2003/06/05 黒潮本流にバランタイン30年・・・2
2003/06/05 海の男、海に還る

2003年6月29日

風の皆様へ(散骨された方からのおたより)

久しぶりに風のホームページを開き、沢山の方々の散骨の様子、その後を読ませていただきました。散骨をするまでの経過はそれぞれ全く違うのに、海に沈む遺骨を見送る気持ち、そして散骨を済ませてからの気持ち、どの方のページを読んでも、母の遺骨を見送ったあの日の、穏やかで、でも淋しくて、少し安堵した私と同じ気持ちで涙が止まりませんでした。
母の散骨後、母が生前家族みんなで行きたいと願っていたハワイへ少し残した遺骨と共に家族で行ってきました。そして母が、帰りたいと最後に願った長年住んでいた家に(引っ越したマンションではなく)今年の秋、妹夫婦が父、母の位牌と共に新しい家を建て帰ることになりました。
追伸*ジャズコンサート予定が許せば是非参加したいと思っております。

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2003年6月27日

真っ白な粉が海中に舞いゆく

 6月7日、お母さまのご遺骨を散骨されたKさんから、お便りを頂きました。「風の日誌」へ掲載することを承諾頂きました。

 過日は、心あたたまる葬送を、どうもありがとうございました。私たち家族にとって、母とはもう随分と前に別れをしていましたので、散骨自体は形式と思っておりました。

 しかし、いざ天空の下で、真っ白な粉が海中に舞いゆく様を目の当たりにしますと、まるで沢山の思い出が体中から溶け出していくような、なんとも言えない辛さと、美しさを実感致しました。(Kさん御家族は、御遺骨を自分たちの手で粉末化され、通常行う水溶紙での包装はせず、直接海に還しました。波、風の穏やかな海況ですと可能な方法です。)

 言葉すくなに、お付き添い頂いたことが、かえって誠にありがたく思っております。

 父にとっても、我々子供たちにとっても、天寿を全うし生きることの恵を、精一杯感謝し、そして、いずれ又、家族みんなが空の上で再開できるまで、日々暮らしてゆきます。

 海上でのあの風と、波の音と、油壺で目にした深い緑、五感で受けたこの思いを、必ず母に届けます。

 オンディーヌを操る、すばらしきパートナーのことも伝えます。

 追伸・・・例のお人形、無事届きました。いい色に焼きあがってました。(わが社の取り扱い分骨容器の中から、Kさん御家族は「京都・博國屋」の「黒地蔵」を選ばれました。興味の有る方は、 http://www.hirokuniya.com をご覧ください。)

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2003年6月26日

恒例になった「ジャズコンサート」

 今年も、727日に「オンディーヌ5」主催の「水上のジャズコンサート」を開催します。ジャズファンなら、どな月たでも参加できます。

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2003年6月20日

桜桃忌、そして様々な死

 今年は、早い時期から日本に上陸する台風が多い。ガラス戸で周囲を囲まれた古い日本家屋は、雨戸を閉めても風の音で賑やかだ。

 昨日は、「桜桃忌」、ご遺骨をお預かりに伺う道すがら、紫陽花の花が美しい。桜の季節の薄いピンク色は、なんとなく心華やぐ感があり、目線も高いが、紫陽花の花は、目線も低く、雨や曇りの日が鮮やかに見えるせいか、少し悲しい。でも好きな花である。「紫陽花の花は好きですか。」と問いかける太宰治の小説は何だっただろう。

 今、人の死と出会うのが仕事である。幸せに大往生なさった方も、寂しく亡くなった方も、自ら死を選んだ方も、いろいろな死に出会う。生前に予約を頂くケースもあるが、今のところ、亡くなった方に生前お会いする機会は勿論、全くと言っていいほどない。それでもご家族の言葉の中から、会えなかった故人の人柄を探り、その人生に思いを馳せる。

 そしていつも残念に思うのは、自死した方に生きているうちに会えなかったことである。会えていたからといって、何もできなかったであろうが、せめて話を聞くくらいは出来たのでは、と思ってしまう。人に話すだけで心が軽くなることは多いものだ。私は全ての人の生を人ごととは思えない。無関心ではいられない。生きて苦しみ、悩んでいる人は尚更である。今、日本では自死する人が年間3万人を越えた。本当に不安ばかりが多く、先が見えない時代である。

 現代人の1割以上は、「軽いうつ」を感じているという。その解決法の1つとして、やはり、メンタルクリニックや心療内科に行くことは、かなり有効であるらしい。抗うつ剤も良いようだ。精神的な治療は決して恥ずかしいことではない。家族の中で、そのような人がいたら、早めに専門家に見てもらうよう勧めて欲しいと思う。勿論保険も使えるのだから。

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2003年6月12日

散骨のご遺骨

 日本では、戦後火葬が定着して、ほとんどの遺体は火葬され、家族や親戚、友人で骨を拾う。しかし、それは日本独特のことで、外国人からすれば不思議な行為に見える。アメリカでは、地域にもよるが、全体では土葬率がはるかに高く、その亡骸は「エンバーミング(防腐処理)」をして大事にする。その反面火葬が上回るカリフォルニア州では、散骨が盛んであり、骨には執着しない。

 火葬場には、遺体が送られてくるが家族は来ない。灰になった亡骸は、箱に入れて宅配便で、遺族に送り返される。それが普通である。だからといって火葬をする人が、薄情なのでも、ドライなのでもない。習慣であり、もっと精神的なことが優先する。

 だから、葬式そのものより、最後の遺体とのお別れに時間をかける。「ビューイング」というお別れに1週間を費やすこともある。それは、もちろんアメリカの国土の広さ、世界的規模の人の移動が主な理由で、エンバーミングもそのためであることは勿論だが、死者の最期をできるだけその人らしく飾ってあげ、その姿を心に刻んでおくからだ。

 そういう意味では、日本人は骨に執着しているともとられ、実際そういう人もいる。だから、散骨などとんでもないという人は多い。そして、散骨を決めた家族にとっても骨は、やはり特別な意味を持っていることが多い。そこに魂がないと分かっていても割り切れないのが愛情なのだ。散骨に際し、周囲でも必ず1人や2人反対する人が出て、さらに迷う。

 それでも故人の遺志が大事、意を決する。骨は粉状にしなければいけない。どうやって?機械はかわいそう?他人にさせるのも。最近は、家族で細かくするという人も増えてきた。機械より金槌などのほうが恐いという人もいるのだが。人それぞれ最後まで悩みは尽きない。

 今回、散骨なさったKさんは、いろいろ悩み、ご家族で粉末状になさり、参加者の人数に分け、水溶紙でできた袋に詰め、参加される方の名前を1つずつ書いた。当日、そこにメッセージを書いてもらうよう、筆記具も用意された。

 弊社では通常海上の風を考えて、骨灰が船内や人にかからないよう、水溶紙に包んだまま、海に還すのだが、Kさんからはご遺灰が海に沈んで行くのを見たいという希望があった。そこで、風の状態が強くなければ、ということになった。

 第一希望の日は、故人の四十九日にあたっていたが、生憎台風にぶつかってしまった。でも、延期した当日は、雲が多かったものの波も風もなく、本当に穏やかな良い日和となった。包まれたご遺灰は、それぞれの方が包みの角を切って、お花と共に海に還された。真っ白い遺灰が静かに水に沈んで行くのも自然に還るという実感があって良かった。最後までチャーミングだったというKさんのお母さまに白ワインで献杯。

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2003年6月5日

黒潮本流にバランタイン30年・・・2

 前回の黒潮での散骨の続きである。

 八丈島は、10代最期の頃の思い出の島、その時は、夜行の東海汽船に乗り、朝、目を覚ました時の海の色の素晴らしかったこと、島の人に乗せてもらった小船で、藍色の海の中を走った爽快感、これが私が海に惹きつけられた初めだった。

 ヨットに乗るようになって、初めて行った小笠原、八丈を越えるのが1つの山だった。河のように流れるから、地元の人は黒瀬川という黒潮、そこを越えれば南の海、穏やかになるのだ。

 あれから10年、久しぶりの黒潮、目の前の潮の境目、その向こうの黒い流れ、ジーンとして、本当に感動してしまった。黒潮の中で、散骨をしている時、「オンディーヌ5」の船長が、邪魔になる漂流物を網で掬い上げた。紫のペイントが剥がれかかった木片である。チャーター船の若い船長が、「いやー黒潮だなー。色々なものが流れてくるんですよ。」それも多分、台湾漁船の船体の一部のようだ。

 この海流は、太平洋を渡り、カリフォルニアまで流れて行く。いろいろな国のいろいろな物、それは時にロマンであり、夢を育む。しかし、環境問題も今日大きい。「椰子の実」の歌ではないが、南の島の海岸に流れ着いてたプラスチックのゴミの数々を思い出した。

 八丈の黒潮に散骨された、Iさんの奥様から、お手紙を頂きました。了解を得、掲載します。

『過日は、お世話になりました。お蔭様で人・天候等に恵まれ、故人の願いである黒潮本流内に、無事散骨出来ました。私にとっては重い事でした。

 これからも、依頼人が何を望んでいるかを、きちっと受け止めて、可能な限り力を尽くして下さる船長御夫妻であって欲しいと思います。

益々の御活躍と、御健康をお祈り致します。有り難うございました。』

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2003年6月5日

海の男、海に還る

  その人は、一等航海士だった。タンカーに乗っていたという。家族のなかった彼は、自分の死が近いことを知り、会社の後輩でもある友人に後のことを託した。自分の死後の一切をである。弁護士にも立ち会ってもらい、正式な遺言も作った。葬儀は無用、骨は、房総沖に撒いてほしいと。

 Nさんは、身元引き受け人となり、その遺言を守った。

 房総半島沖は、比較的いつも波が高い。その依頼を受け、やはり、天気が心配だった。Nさんも忙しい人で、その日しか都合がつかないという。散骨前日、多少、波が高くても実行することに決まった。もちろん、警報が出ていれば、話は別だ。当日の海は、大きなうねりが有るものの予想ほど悪くなかった。

 風と潮に乗り、かなり早く散骨海域に着いた。うねりの中、後部デッキは風を受ける形になりながら、船長は船を外洋からの大きなウネリに船首方向を直角に合わせていた。揺られながら、バランスをとり、Nさんは、思いを込めて友の遺骨を海にお還した。

 タンカーに原油を満載にし、日本に戻ってくると、いつも房総沖で東京湾入港の時間調整をしたのだ。その場所に今、彼は還った。

 帰り道、奥さんと話したそうだ、私たちも散骨にしよう、と。2人の娘さんに心配をかけたくないという思いもあるそうだ。

 Nさんから、お手紙を頂いた。承諾を得、掲載します。

『 風さま

 先日は大変お世話になりました。

 私たちの心もやっと、落ち着くようになりました。波間を見ていると、故人を思い、少々悲しくなりました。

 Captainの操船により、無事散骨が終わりましたことを、お礼申しあげます。

 最期まで、私たちの気持ちをくみとり、気をつかって頂きましたことは、大変に嬉しく思っています。

 いつまでも、お元気で、海を大切にして下さい。』

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