お客様の声・風の声
2003年8月

2003/08/27 早世した後輩の本棚・・・2(追悼山行)
2003/08/20 早世した後輩の本棚・・・1
2003/08/18 イルカと共に永遠に・・・11(大雨強風注意報の日に)
2003/08/13 日本の最南端へ・・・3 (Iさまからの、お便り)
2003/08/09 何だか私も、新しい事を・・・
2003/08/08 日本の最南端へ・・・2
2003/08/08 日本の最南端へ・・・1
2003/08/07 花の子供・・・2
2003/08/07 花の子供・・・1
2003/08/07 マリーゴールドの花
2003/08/03 悲しく、嫌な話
2003/08/03 また、三浦に行きたい
2003/08/01 「第4回 水の上のジャズコンサート」 夜の部

2003年8月27日

早世した後輩の本棚・・・2(追悼山行)

 Kの奥さんは、葬儀の時「横尾の話を、いつも楽しそうに話していました・・」と言った。

 私とKの一年後輩のYとは「冬の槍ヶ岳・北鎌尾根」をはじめ幾つかの登攀を共にし、今も親しく付き合っている。Yと話し合いKに相応しい、一周忌の追悼山行を企画した。

 8月23日、午後4時頃には、参加者11名、上高地の上流、森の中の「徳沢園」にそれぞれ到着した。上高地から2時間のハイキングに汗ばんでいても、山の空気が肌に清々しく感じる。夕食後の酒盛りは、Kとの思い出話が9時半の消灯まで続いた。

 翌朝、晴れ。Yを先頭、私がシンガリで横尾を目指し出発。15分程で梓川に架かる「新村橋」に着く。対岸に屏風岩の頂上から、北尾根が黒々と前穂高山頂へと続く。その手前の下又白の岩壁が、樹林限界線の上に花崗岩の白い岩肌を見せている。三十数年前、五月の連休にこの岩場で岳友のHとMを亡くしている。しばし黙祷する。Mは19歳だった。

 徳沢から一時間ほどで横尾に到着する。横尾の丸木橋は立派な吊橋に変わっていたが、避難小屋は当時のままだ。YがKと過ごした横尾の生活を、Kの妻、子供たちに話す。ここをベースに登った岩壁、当時の仲間たちのこと、そして、避難小屋での乱闘事件の話は若くイキがっていたころのエピソードであり、私も当時にタイムスリップする。

 Kが特に好きだった、屏風岩の良く見える場所まで行くことになり、さらに上流の涸沢への道に入る。しばらく森の中を進む、私は、Jの墓へ通じる枝道を探すが、全く解からない。Jは単独行で冬の涸沢を下山中、雪崩に合い、翌春、遺体で見つかる。この辺りに小さな記念碑をつくった。三十年余も経つと訪れる人も無く、トレースも消えてしまったのだろう。

 槍ヶ岳から流れ下る槍沢と、穂高の本谷が交わり梓川となる「横尾」は、遭難死した岳友たち、K、家族、そして私にとって特別の精神的サンクチュアリだ。槍沢から流れ込む水辺で、我々の輪から少し離れ、そっと涙を拭くKの奥さんを正視できなかった。

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2003年8月20日

早世した後輩の本棚・・・1

 昨日、早世した後輩Kの事務所を訪れた。今月24日に遺骨の一部を散骨する打ち合わせである。Kとは三十数年前、上高地の奥、横尾で知り合った。その時、彼は高校二年生だったと思う。

 当時、私(船長)はロッククライミングに夢中であった。夏の二ヶ月間、横尾の更に奥、穂高連峰の涸沢をベースに岩登りに没頭していた。Kの所属していたグループは横尾をベースに屏風岩を中心に活動していた。夏の間、お互いのベースキャンプを利用しあい、親しくなっていった。

 Kは大学を卒業し、外務省に就職したが、税理士の資格を取り横浜で独立した。その頃、私も会社を立ち上げ、様々な相談にのってもらっていた。岩登りのグループも体育会を思わせる上下関係があり、七歳の年齢差の「威力」はKの亡くなる昨年まで続いた。冬の上高地の凍りつく水で、米を研ぐ半ベソの横顔が今も目に浮かぶ。仕事上でも我侭なクライアントだったと我ながら思う。

 事務所の応接室の壁面に、今まで無かった本棚を見つけ、挨拶もそこそこに蔵書を見入った。自宅からここに移したという。古く色の変わった「岩と雪」「岳人」「山と渓谷」そして登山関係の沢山の書籍、私にとっても何度も読み返した懐かしい本がそこには有った。その中に推理小説と、旧日本軍関係の書籍が、私の知らなかったKの一面を主張していた。

 Kの事務所は現在、彼の奥さんが切り盛りしている。不況下、彼女はこの一年間の苦労を明るく話す。昨年、受験生だったお嬢さんは大学生になり、税理士を目指しているという。中学生の弟は反抗期、真っ只中。ともかく家族は危機を乗り越えていきそうだ。

 帰りがけ、推理小説と軍関係の三冊を借り受けた。いま、「ノモンハンの夏」を読みはじめた。

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2003年8月18日

イルカと共に永遠に・・・11(大雨強風注意報の日に)

 先日(14日)の合同散骨の日は、朝になって前日の予報よりも天候が悪く、結局延期が決まった。出港時間の3時間前で、それぞれのご家族に連絡をし、来ないでいただいたのだが、Tさん姉妹はもう家を出た後で、間に合わなかった。

 彼女たちは、4月に息子さんの散骨をなさり、その後も1回乗船なさった「いるかの好きなH君」のお母さまたちである。今回は一周忌を済まされたばかりであった。

 大雨と強風の中、はるばるいらしていただいて、申し訳なく、船でお茶など飲み、近所で昼食を共にした。その後、海沿いをドライブしながら案内し、三崎口までお送りしたところ、次のようなお手紙をいただいた。(掲載の承諾を頂ました)

 

 前略

 昨夏の暑く長かった日々と比べて、Hの一周忌の今夏は夏らしくない夏が過ぎゆくのでしょうか。今日、思い出の海への出航は警報で、出られませんでしたけれども、陸路マリーナから三崎まで海沿いに案内して頂き感謝です。

 途中、ゴルビー(わが社の事務所へ寄り、老犬と対面)の憂いをおびた可愛い目に逢えて幸せ。剣崎、城ヶ島、油壺、相模灘も陸から見ると趣のある道を通って、船着場など見ながらのせいか懐かしい様な、心に残る三浦の海でした。

 寝不足の私には、桟橋を歩いていた時に当たった雨まじりの海風がとても気持ちよくて、正気を取り戻すのに最高でした。(正に♪雨に歩けば・・・です)

 お盆休みで東京では、あまり良いものが無く何処も同じと思っておりましたが、やはり海、美味しい物は地元に蓄えられていた様ですね。お陰様でHの一周忌、良い想い出になり有りがとうございました。

 天候不順の今夏、どうぞ御夫婦ともに、お体にお気をつけて下さいませ。

     草々

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2003年8月13日

日本の最南端へ・・・3 (Iさまからの、お便り)

 沖縄・波照間島で、お母さまのご遺骨を散骨されたIさまより、メールを頂ました。日誌への掲載をお願いしましたところ、「『散骨』に対して一人でも多くの方に理解を示して頂くという事は、母も含め我々も願うところです。」と、メールを頂ました。「花の子供・・・1、2」もあわせてお読み下さい。

 

 石垣ではお世話になりありがとうございました。

 散骨に同行できなかった(子供達に見せられなかった)のは非常に残念ですが、家族でまた波照間の地を踏む計画を既に実行中です。また、来年ぐらいに島にいければ幸いかと思います。

 さて、あれから後に石垣→那覇行きの飛行機が条件付きで離陸し、すごい揺れの中でなんとか本島にたどりつきました。その日の夜に暴風域に入り名護のホテル到着は飛行機の遅延もあって夜の23時でした。翌日は台風傘下の影響でほぼ一日停電に合い、ホテル内でじっとしているしかなかったのが結構つらい思いでした。

 帰宅する8日(金)は那覇→大阪の飛行機が台風10号を追い越し、結局予定通りその日のうちに帰宅は出来たものの、沖縄の名護で受けた台風をもう一度関西で迎えるのは、なんとも奇妙な旅行だったと感じます。子供達は本当の台風の怖さを肌で感じていましたのでいい経験になったと思います。

 実は散骨して頂いた次の日、1日だけ台風の間に子供達と、石垣自然探索を強行しました。アスファルトとコンクリートに囲まれた大阪では、絶対に感じることのできない石垣の「自然」にめぐり合えて、私ども夫婦も石垣のすばらしさに魅了され来年も墓参り(海参りですが)を兼ねて、再びあの地を訪れる決心でおります。(反って予定通り順調に散骨が済んでいればこんな気持ちにはならなかった事でしょうね)

 廻りに散骨希望者がいれば貴社を紹介させて頂きますのでその際は何卒宜しくお願い致します。

 本当にいろいろとお世話になり、ありがとうございました。

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2003年8月09日

何だか私も、新しい事を・・・

 7月25日に、お父様の御遺骨を散骨された、Hさまからお便りを頂きました。掲載の承諾を頂きました。

 

 梅雨が明けたと思ったら、もう立秋、今年の夏は短いですね。散骨証明書届きました。また、先日はお世話になり、ありがとうございました。

 爽やかな晴れた海に、できれば良かったのですが、自然に還るとは、こういう事なのですね(実は、少し酔ってしまいました)。でも、散骨の時に一緒に流した花々が、波間に漂って、とても印象的でした。

 父とは、仲が良かったとは言えないのですが、自然に還してくれという父の遺志は、散骨した後、とてもよく理解できました。

 ジャズコンサートはいかがでしたか? 都合がつかず残念でしたが、お二人のお話をうかがって、何だか私も、新しい事を始めたくなりました。

 お二人の、ご活躍をお祈りしています。

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2003年8月08日

日本の最南端へ・・・2

 台風9号は台湾方面へ去り、南の10号が問題だ。八重山諸島へ渡る船は、ほとんどが石垣港から出ている。波照間へ向かう船「あんえい号」は、ほぼ満席だった。

 順調な滑り出しの船も沖へ出るに従い揺れ出した。でも意外にも皆それほど酔う様子もなく、ほとんどの人がよく寝ている。中間地点を越えると一層うねりが大きくなり、男の子が酔って、大人たちが右往左往し出す。島のダイビングボートの船長の忠告どおり、明日には島を離れた方がいいかもしれない。

 島への到着は午後5時だった。島に上陸すると民宿の車が、出迎えに来ていた。この島には、民宿しかなく、交通機関は全くない。レンタルバイクか自転車だけだ。猛烈な暑さにもかかわらず、車はエアコンも入れない。しかたなく窓を開ける。

 民宿に着き、有料のエアコンを入れ、ホット一息、お風呂に浸かる。幸いバス・トイレ付きの部屋が取れたが、ほとんどは4畳半くらいの和室で共同のシャワーしかない。それも、仕切りが無く、脱衣所もない。暑さで昔の日本の夏を思い出した。

 夕食前に付近を散歩する。花探しも目的である。見事なブーゲンビリアの咲き誇った家を見つける。百日紅も美しい。日々草、ランタナ、そしてハイビスカスが立ち並ぶ小径を行く。赤、黄、ピンクのハイビスカス。南国の花をどうしても入れてあげたかった。

 翌朝、夜中の雷雨で、花はみな濡れて、しぼんだりしている。ブーゲンビリアの家へ行き、交渉して花を分けてもらう。うれしい!見事な南国のピンク!

 後は、野の花で少し気が引けたが、ちょっとだけ摘ませてもらう。ピンクのハイビスカスは弱そうで、きれいなのが中々見つからなったが、1本だけ素晴らしい花をつけた木があった。

 ご遺骨をピンクの花で飾り、I氏ご一家を待つ。今は携帯があるから本当に便利。連絡も簡単にとれる。しかして、彼らは朝の飛行機で来るはずなのだが。電話が鳴り、飛行機が飛ばないという。8人乗り位のその飛行機は欠航することで有名だと昨日聞いたのだが。

 I氏は、幼稚園と小学生低学年の子供たちのため、往復船は可哀想だし、何もない島に泊まることも可哀想で、飛行機にしたのだが。次の船で来ても、最終の船で石垣へ戻れる保証もない。台風十号は徐々に近づいている。私たちも今日中に島を離れられるのか定かではない。散骨も今日しか、日程の中では無理である。I氏はあきらめて、すべてを私たちに任せてくれた。

 午前11時ダイビングボートに乗り込む。海は昨日より良いという。しかし、かなりスプレーがひどく、瞬く間に潮を浴びてしまう。地元の人が日本一美しいと言う西浜沖に着く。思ったより海は静かで、もう少し南まで行けそうである。さらに南を目指し、I氏のお母さまの希望どおり、日本の最南端の海へ近づく。彼女は、若いときから毎年遺書を元日に書き換え、以前は最北端の宗谷岬へと言っていたらしい。でも、寒いのがやっぱり苦手だからと・・・。

 そこは水深200メートルだという。美しいコバルト色の水が、実にきれいだ。鮮やかな南国の花に囲まれて、4つに分けて包まれたご遺骨はバラの花と共に、しばらく漂い、海底へ向かう。白い包みが海中を滑って行くのが、かなり深くまで見える。こんなに美しい南の海に眠れて、彼女は本望だろうな。やはりリクエストのあったブランデーも海へ捧げる。こんなにきれいな海に還されたら、人魚になってしまうのではないかしら、ふと思う。

 私たちは、その日、石垣島に渡り、写真を急いで現像し、I氏に渡した。波照間島の絵葉書も添えて。曇り空で、写真に写った海の色は残念ながら今ひとつだったのだ。

 十号が近づく中、次の日、那覇空港で空席を待ち、4時間待った後、予定より早い便に乗れ、東京に着いた。乗る予定だった夜の便から150便が欠航になっていた。

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2003年8月08日

日本の最南端へ・・・1

 献体をなさったというI氏のお母さま、「個性的な方だったんでしょうね」と言うと「そうですね、個性的というよりわがままでしたね」と言う答えが返ってきた。波照間島での散骨を納めた写真をじっと何度も何度も見ているI氏の姿から、彼のお母さまへの思いが、ひしひしと伝わって来る。石垣島の全日空ホテルでの話しである。

 日本の最南端波照間島は、やはりとても遠かった。朝3時半起床、4時半に家を出て羽田に向かい、6時半の飛行機に乗る。9時沖縄着。これから石垣島を経由して波照間島へ向かうのだが、この時点で石垣港3時半発の船にしか間に合わない。1日1便の飛行機は朝に出るし、1日3便の船も2本は午前中に出てしまう。

 私たちは那覇空港でレンタカーを借り、花屋へ走る。波照間島にはほとんど店などなく、まして花屋などない。今回一番大変だったのは、花の入手である。

 以前那覇に来たとき行った国際通りの市場の花屋やそのとき見かけていた何軒かの花屋を当てにしていたが、今回は指定が全てピンクの花でということなのだ。普段良く見かけるピンクの花、それがたまたま花屋にないことがある。黄色の花の時もそうだったが、サンダーソニアの時も、いつもあるはずの花がその日に限ってなかったりすることがある。それで前の日、インターネットで沖縄の花屋を調べ、何軒か電話をしてみた。案の定、ピンクは全然ないという花屋もあった。やっと一軒市場で仕入れて取っておいてくれるという店をみつけほっとした。

 那覇の空港でも町にもピンクの花がたくさん咲いているのに、買おうと思うとなかなか思うようにならないものだ。空港を出ると予想以上の蒸し暑さが待っていた。花屋の店員さんが心配していたのはこの暑さだった。私たちは東京からたくさんの保冷剤をクーラーバックに入れて持ってきていた。用意されていたピンクのスプレイバラを水分補給のゼリーにつけ、箱に入れ保冷剤を詰める。これで24時間持ってもらわなければならない。

 出来るだけ涼しい場所に居たいので、空港のロビーで時間を潰すことにした。ロビーでは仮設のステージで歓迎の沖縄舞踊をやっている。獅子舞のようなシーサーの踊りもあり、それがなかなか面白かった。そして定刻に搭乗、沖縄への旅は本当に飛行機が楽しい。色々な島の形や地形を楽しみながら、サンゴ礁の海を上から見る。

 カレンダーのような風景は空からしか臨めない。夏の雲も楽しい、地平線でも水平線でもない空の果ては、空平線だろうか、蜃気楼のように雲がビルの群れに見える。空から見る積乱雲とそこの雨がすごい。雲から細い白い糸の束が地上へ落ちカーテンのようになっているのだ。晴れた日の窓からの景色は本当に見飽きることがない。そして私にとっては、船に乗っていることもそうだ。いよいよ波照間島への船に乗る。

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2003年8月07日

花の子供・・・2

 主人と思われる人に「オリオンビール」を注文し席に着く。黙々と仕事をしているので、話しかけるタイミングがない。

 仕方なくポケットから、折りたたんだ紙を出し彼に示す。このホームページの制作・管理をお願いしている、Sさんから届いたメールを出力したものだ。

 Sさんは大阪在住のウェッブデザイナーで、かつてこのご主人のロックバンドと仕事上の付き合いがあったそうで、島へ行ったら「寄ってみたら・・・」という内容である。勿論私宛のメールで、彼に見せるのも変だが、話のキッカケが無いからしょうがない。

 「アー、写植屋さんね。」また、沈黙である。少し甘ったるい「オリオンビール」をすすり、仕方なく、吹き込んでくる風に顔を向ける。

 さっきから流れている島唄はこの主人と、厨房で立ち働く女性との合作CDであることが、少ない会話から解かった。唄と三線に耳を澄ますと、かすかにシタール風の味付けを感じる。島の人らしい女性は彼の妻なのか、単に従業員なのかは最期まで解からなかった。

 夕食の時間が近づきCDを買って店をでた。ヒッチハイクで軽トラックを止め、荷台にしがみ付き宿に帰った。「パナヌファ」とは島の方言で「花の子供」と言う意味だそうだ。そういえば「フラワーチルドレン」てヒッピーのことだったと思う。

 さて、明日は、日本最南端のこの島の、さらに南の海域への散骨だ。

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2003年8月07日

花の子供・・・1

 沖縄・石垣島に着陸、雲の間から時々、サンゴ礁の島々を見るフライトだった。外気は重い湿気の熱風。  目的地の波照間島へは、「海の暴走族」と地元の少女が言う高速船「あんえい号」に乗り込む。なまじの悪天候でも、めったに欠航はしないそうだ。こころ強い。

 遠くの台風9号、10号の影響か、黒南風(くろばえ)が間隔の短い波を作り、舟の乗り心地はすこぶる悪い。ほとんどの地元の乗客(30人程)はヘッチャラとばかり居眠りしている。夏休みの都会風の少年一人嘔吐している。小学4年生くらいの姉が横を向きながらも背中を摩ってやっている。

 一時間ほどの苦行の後、到着した。民宿の夕食までの時間を利用して、島で寄って見たかった「パナヌファ」へ向かう。砂糖キビ畑の一本道を15分ほど西へ歩く。発電の大きな風車を過ぎ、路地を入り3軒目にそれは有った。

 かつてヨットで立ち寄った、太平洋に浮かぶ、メキシコ領の政治犯収容島だった「イスラ イザベラ」の監獄跡を思い出す。絶海の孤島だから塀はいらない。風通しの良いコンクリートの柱と屋根だけの建物だ。

 ゆったりと沖縄風の曲が流れている。二人の人影がある。

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2003年8月07日

マリーゴールドの花

 長かった梅雨が明け、盛夏が始まり、暑中見舞いを書き出したら、もう明日は立秋。でも、まだまだ残暑という気分にはなれない。

 三浦の畑は今、マリーゴールドが咲き乱れて、野菜畑とは違う明るい雰囲気が漂っている。この観光シーズン真っ盛りに合わせ、皆の目を楽しませてくれようとしているのかな。なかなか粋な計らいだなと思っていると、どうやらそうではないらしい。

 作物の種を撒く前の三浦の土は素晴らしい。見ていて惚れ惚れするような濃い茶色の豊かそうな土だ。ここで、3ヶ月か4ヶ月で作物が収穫されている。大根だったり、キャベツだったり、西瓜だったりする。

 マリーゴールドは、収穫と収穫の合間に土を殺菌する作用があるらしいのだ。大根の種まきに向けて植えられていた黄色とオレンジの花が、海を見渡す高台に涼しげに咲いている。

 でも立秋とともに大根の種撒きが始まりそうで、花を根こそぎ土と混ぜて肥料にし出している。それがあの素晴らしい土を作り、今年も立派な肌つやの綺麗な大根を作ってくれるそうだ。

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2003年8月03日

悲しく、嫌な話

 7月30日、妻(カウンセラー)の誕生日、昼間所用を済ませ、いそいそ、お気に入りの、新宿御苑駅に近いイタリア料理店「タベルナ ロッサーナ」へ向かう。

 オーナーソムリエの立石さんは、惜しげもなく上質のワインを次々とあけ、グラスでサーブしてくれる。もう一人のオーナー料理長の三田さんの、選びぬいた食材と完璧な味付け、27日のコンサートにも参加してくれた、店のスタッフとの会話も楽しい。

 二次会は、お決まりの新宿ゴールデン街へ。「ブイ」「唯尼庵」と飲み歩き、どうしても逢いたかった「流しのマレンコフ」を探して歩き回る。

 二番街で「マレンコフ」に逢い近くの「トンボ」に入る。ここのママもオンディーヌに来たことのある友人である。題名やイントロを告げると、マレンコフは電話帳のような歌本のページ数をピタリと当て、伴奏が始まる。

 何曲か歌い、ふと、彼のギターを見るとピカピカの新品である、以前はお世辞にも綺麗とは言いがたいガムテープで補強してあるものだった。新品のいきさつを聞き、酔いがイッペンに覚めてしまった。

 二人の学生に因縁をつけられ、気がついたら五人の学生風に、殴る蹴るの暴行を受けたそうだ。彼は昭和二年生まれの七十五歳、自分の身を守ることもままならず、救急車で病院へ。ギターはバラバラになっていたと言う。

 悲しく、嫌な話である。でも、その夜、知り合いの芸達者な居酒屋のご主人を呼び、得意のナツメロに彼の伴奏は冴え、久しぶりに思わぬ競演が見られた。

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2003年8月03日

また、三浦に行きたい

 群馬のSさんからお便りを頂き、承諾を得、掲載します。

 

 この度は大変お世話になりました。

 幸い天気にも恵まれ、亡き夫の望みどうり家族そろって供養出来たと、心より幸せと思っております。

 娘や孫たちも、とても喜んでくれました。城ヶ島に泊まり、お魚がとても美味しかったです。

 次の日、横浜で少し時間を取り、孫たちは買い物をして帰りました。また、三浦へ行きたいと思っております。

 船長付記・・・昨夜お電話で話したところ、帰路、横浜の中華街で食事をし、お孫さんたちは友だちへのお土産を買ったそうです。群馬に住んでいると海も遠く、中華街のようなところも珍しく、家族みんなで楽しんだ様子を、Sさんは嬉しそうに話したくれました。7月22日の日誌「子供たちのピアノ・・・」も合わせてお読みください。

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2003年8月01日

「第4回 水の上のジャズコンサート」 夜の部

 サックスの池田篤さんをバンドマスターにした演奏は、今年で3回目になる。 メンバーは、その時により入れ替わるが、彼とピアノの野本晴美さんは、フル出場である。野本さんは、若くて美人で素敵なのに、ピアノが船内から出せず、外から彼女の演奏が見えないのがとても残念だ。

 去年から出ているボーカルの広瀬麻美さんも好評で、今年も是非とお願いしたのだが、大人の雰囲気の日本人離れしたハスキーな声が魅力的でビリー・ホリデーを思わせる歌声だ。ドラムスの高橋徹さんは、2回目の時に出てくれて、いつも「パーパー」と言う可愛いお嬢さんの声援付だ。そして今年からサックスが2本増え、さらに厚みが加わり、いろいろなリクエストにも応えてくれて皆大満足、来年も絶対来るね、と言って帰った人が多かった。

 さすがに3ステージはキツイらしい。終わった後、メンバーはほんとに疲れきっているようだった。船内で少し休んでもらい、お菓子やお酒などでねぎらう。そして、帰るべき人は帰り、ゆっくり出来る人は残る。夜の酒盛りの時間である。

 ここ2年、いつも池田さんと野本さんは残り、ビールやワインなど飲みながら、気がむけば演奏が始まる。最初は予期せずに始まったそのセッション、感動の連続である。目の前でワイン片手にピアノを弾いてくれる彼女の素敵なこと、少し砕けた感じがまたいい。そこに入る池田さんのアルトが、またしびれる。セクシーであり、これ以上ない大人の時間に皆酔いしれる。

 去年は、皆暗黙のうちに期待して待っていた。そして彼らは期待に応えてくれた。船にピアノをのせた甲斐があった。これがやりたかったのだ。美味しいワイン、ピアノとサックスのプライベートセッション、真に「夏の夜の夢の如く」である。

 そして今年、皆疲れきっているのが、顔が出ている。とても無理だなとあきらめていた。するとしばらくして、野本さんがソロで弾き始めた。ワォーという感じ、やった! 船長は、急いで知り合いのご夫婦を呼びに行く。

 この演奏をこそ、彼らに聞かせたかったのだ。私たちの大好きなMご夫妻、元ジャズ喫茶をしていた彼らは東京湾の奥からヨットで来てくれていた。今はリタイアして、海外の南の島を楽しんだり、ヨットで日本の海を廻ったりとても羨ましい生活をなさっている。

 彼らが席に着き、演奏はいよいよ佳境に入る。テナーの三木さんがピアノを弾き始め、そこにアルトの池田さんも加わり、連弾が始まる。意外な楽しいお遊びだ。そしてそれからが本番、ピアノとアルト、テナーによるジャムセッション、さらにボーカルが入る。

 マイクを通さない生の音、生の声が実にいい。こんな贅沢いいのかなーと、顔もほころんでしまう。M夫妻の旦那様が言う、「こんな道楽もあったなー」。奥様の目には涙も見える。

 かくして、優雅な優雅な夏の夜が終わった。

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