お客様の声(風の日誌)

散骨式などのエピソードを読める「風の日誌」を過去のものから全てを掲載しています。過去のものは右の目次からどうぞ。

2004年1月

2004/01/27 12月はじめの合同散骨で
2004/01/27 マンタ?それともエイ?・・・2
2004/01/21 マンタ?それともエイ?
2004/01/21 グリの病気・・・2
2004/01/21 グリの病気・・・1
2004/01/13 未完成の肖像画・・・3
2004/01/05 サマー デイズ・・・4
2004/01/05 サマー デイズ・・・3
2004/01/05 サマー デイズ・・・2
2004/01/05 サマー デイズ・・・1
2004/01/02 最後の世界一周は、黒潮に乗って
2004/01/01 サンライズ、サンセット

2004年1月27日

12月はじめの合同散骨で

 12月はじめの、合同散骨に参加頂いたKさんから、お便りを頂きました。了承を得、掲載します。Kさんのお母様は、昨年春94歳で亡くなられた。

 

 前略
 昨年(12月4日)は、散骨で大変お世話になり、ありがとうございました。

 私なりに最後の親孝行が出来たと思います。

 生前若い時から本を読み、なかなか現代的な母でした。横須賀育ち、広々とした海に散骨して、良かったと思います。

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2004年1月27日

マンタ?それともエイ?・・・2

 1月18日に散骨された、Kさんからお便りを頂きました。了解を得、掲載します。

 

 風の皆さま
 前略、先日のTK,SKの散骨の時は、準備から当日まで、お世話になりありがとうございました。

 二人を亡くした悲しみよりも、信じられない、今にも帰って来るのではないかと云った気持ちで、毎日を送って来ましたが、本人の希望でした散骨が無事終わり、私達も、すこし落ち着きを取り戻して来たように思います。

 お天気にも恵まれて、とてもステキな散骨でした。友人にも話した所、皆さんが良いわねと云ってくれて嬉かったです。

 当日、お世話になった皆さま、影でサポートして下さった皆さまに、厚く御礼申し上げます。ありがとうございおました。

 乱筆乱文にて、お許し下さい

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2004年1月21日

マンタ?それともエイ?

 18日の日曜日のことである。前の日の予報を裏切り、素晴らしい天気となった。今回は、KさんとOさん親戚同士ご一緒の散骨である。お子さんが4人乗るので、往復2時間半の乗船がきつければ、東京湾口でもということだったが、海も穏やかで、陽射しも暖かく、城ヶ島沖までスムーズに行くことができた。でも、やはり3人の子が酔ってしまったのだが。

 冬は本当に海の水が澄んでいてとてもきれいなのだが、この日は格別の透明度だった。こちらで用意した花以外に、皆さんたくさん持っていらしたので、お花の量がすごい。ご遺骨を海に還し、花を海に撒いていると、突然すぐ目の下に大きな青白い物がある。

 何ですかと聞かれたが、何だかすぐには分からなかった。海面から1メートル50か2メートルの所だろうか、私は一瞬そこだけが浅い海底のように見えてびっくりしたのだが、船は何事もなく浮いているのだから、浅瀬ではもちろんなく、その辺にそんな場所もない。えっ、ビニールシート?いや違う。前方にももうひとつ、ひょっとして、これは・・・・。

 マ、マンタ?初めてである、私は。大きなエイなのかも知れないが、とにかくそんなようなものなのだ。3匹いたらしい。船長は前にも相模灘で見たというが、ちょうど散骨しているときに現れるなんて。なんというハプニング。せっかくの幸運にも子どもたちは、船酔いでそれどころではなかったようだ。

 きっと海の中から、上を見上げたら、お日様がキラキラしていて、沢山の見なれないものが浮いていて、思わず好奇心で上がってきてしまったのだろうな。
因みにこの日は、Kさんの可愛がっていたワンちゃんの遺骨も一緒に海に還された。

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2004年1月21日

グリの病気・・・2

 嘔吐をし、熱が出、脱水し、元気がない。1日様子を見て病院に連れていくと血糖値が435と異常に高いという。病名は糖尿病である。即入院となった。しかし、グリの最大の敵は獣医さんで、病院が大の苦手なのである。ニューヨークの獣医さんでは、予防注射をするのに大暴れをして、麻酔を打たれてしまった。

 本当に西表山猫のようになり、獣医さんや助手の人3,4人がかりで押さえる大騒ぎになる。だから尿道結石のときも大変だった。案の定今回も、獣医さんにギブアップされ、この猫を入院して見るのは無理ということになってしまった。猫の糖尿病は、大変やっかいで、治療が難しいという。私たちは、その晩、もうだめかもと最悪のことも考え、一晩泣き明かしてしまった。

 しかし1日の入院の後、インスリンが効き、血糖値は平常にになり、食欲も戻り、見る見る元気を取り戻した。急激に体重が減ったので、何でもたくさん食べさせて良いというので、お刺身を買い、松輪の鯖を焼き、普段食べてはいけない、マグロの缶詰などを次々与え、瞬く間に体重を取り戻した。一過性の糖尿病もあるということで、そうかも知れないと思い、それを願ったが、2日後、また血糖値が上がり、体重も減ってしまった。

 朝、晩通院し、血液検査をして、その結果でインスリンを打つ。その量を決めるのが難しいのだという。効きすぎると低血糖になり、危ないのだ。グリもだんだん諦めたのか、病院にいくのも注射をされるのも多少唸って怒るが暴れなくなり、私たちがいれば、おとなしく診察台の上にいる。親ばかではあるが、グリは、本当に頭もよく、本来気立ても良いと思ってしまう。乱暴で気難しいこと以外は、よく言うことを聞き、とても一緒に暮らしやすい猫なのだ。

 そして今日から、家で1日一回、インスリンの注射を私たちが打つことになった。昨日、先生から丁寧に指導を受け、薬と注射器を戴いてきた。治療費もとても良心的で、私たちの要望も聞いて、よく説明してくださるので助かる。

 これからは、週1回病院に検査に行けば良いのだ。この病気では、体重の激減が一番恐いようで、食欲がある間は安心だが、薬はだんだん効かなくなることもあるらしいし、とても油断は出来ない。それに一生薬を打ち続けなければいけないのだろうか。無邪気にグリにじゃれるSORAの存在が、彼には煩わしいようだ。

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2004年1月21日

グリの病気・・・1

 グリは、今年11歳になるカナダ生まれのオス猫である。本名は「ミスター・カナディアン・グリズリーベアー」という。見かけはロシアンブルーだが雑種である。もちろん去勢済みで、体重は10キロの巨猫でもある。

 この猫ほどあちこち旅をした猫がいるであろうか。バンクーバーから日本まで来る間にメキシコ、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、コロンビア、ホンジュラス、ベリーズ、アメリカと北米大陸の水路をほとんど隈なく通り、陸路や空路をヨセミテ、グランドキャニオン、イエローストーンなど、アメリカの国立公園もほとんど周った。

 だから旅に強く、連れ歩くには従順(渋々だが)でお行儀も良い。トイレなど可哀想なくらい何時間でも我慢し、一流ホテルに泊まっても爪は決まった場所で研ぎ、騒がず粗相もしない。たった一つの欠点は、野性的で乱暴なことだ。

 その乱暴さは、あきれるほどで、今まで飼った100匹以上の中でも類をみない。そして人見知りをしないから、人の側にいくが、撫でようものなら、ガブッといく。さわられたり、抱かれたり、構われるのが嫌いなのだ。しかし、自分からは友好の態度で、気に入った人の足元に行き、頭をずりっと擦り付ける。それらが彼の流儀なのだ。野生の猫流なのだが、普通の人にはとても受け入れいれてもらえず、彼のファンはあまりいない。

 被害者は多い。引っかかれて点滴を受けた人もいる。鼻から血を流した人も。とても可愛い猫とは言えないが、10年間苦楽を共にした私たちの宝物である。私のことは母親だと思っているし、私にとっても息子のような存在だ。夜ベッドの枕元に置いてあるフェイクファーの古いショールの所にくると仔猫のように甘え、ゴロゴロ言って何をされても素直にしている。

 いたって健康で風邪などひいたことがない位だが、6年ほど前に尿道結石になり、食事は制限されていた。お医者様の食事を従順に食べ続け、その後も健康そのもので、とてもラクだったのだが、先週ついに大変な病気になってしまった。

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2004年1月13日

未完成の肖像画・・・3

 石井公彦さんのグループ展『燁燁展』が、昨日から(18日まで)「銀座アートホール」で開催されています。たぶん、未完成だった「奥様の肖像画」も出品されていると思います。明日、出かけるつもりです。

 また、TV取材された「奥様の故郷での散骨」は、2月7日(土曜日)午後2時5分フジテレビ系列で放映されると連絡を頂きました。

『銀座アートホール』
東京都中央区銀座8-110(高速道路ビル)二階
電話 03-3571-6583

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2004年1月5日

サマー デイズ・・・4

 1995年1月6日、深夜、ニューヨークの82丁目のアパートで、私はベロベロに酔い、大声で泣いていた。側にいた妻は何が起こったのか解からなかったろう。私は酔うほどに、HとKさんへフラッシュバックしたのだ。

 その頃、私たちはニューヨークに住んでいた。ヨットに乗り、北太平洋、ベーリング海、アラスカ、カリブ海、フロリダ、カナダ東海岸を巡りニューヨークに落ちついていた。私は、1979年のカラコルム遠征以後登山活動から遠ざかり、ヨットの世界へのめり込んでいた。

 Hと会ってから一年と少しで彼は死んだ。そしてその頃から、大学山岳部が大勢を占めていた海外遠征も、より先鋭的な、危険な岩登りを含むルートを登る「町の山岳会」の活躍の時代となった。あの時、下又白の岩棚に集まった連中も、ヨーロッパアルプス、南米アンデス、カラコルム、ヒマラヤと世界レベルを凌駕する登攀を続けた。

 KさんやHと会って35年経ち、未だに彼らを思い出す。特に酔っ払うと・・・。原健のこの本の行間で、青春時代、最も充実していた時間を思い出ださせてくれた。

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2004年1月5日

サマー デイズ・・・3

 三島由紀夫が市ヶ谷で騒動を起こした7日後、私は、大糸線白馬駅に着き、八方尾根兎平のスキーパトロールとなった。この冬、八方尾根の隣、不帰二峰を登ろうとしていた。そして、此処で二十歳の、妻(カウンセラー)になる人に逢う。

 12月半ば、悲報が入る。谷川岳一ノ倉沢出合で雪崩があり、数十人が巻き込まれ死者がでた。Kさんが死んだ。Hは辛くも脱出できた。悲しくて、動揺して酒に酔いゲロ吐いた。

 5月、パトロールから休みを貰い屏風岩へ。Hを紹介してくれたSと霙まじりの豪雨の中、横尾(上高地の上流)でビバーグ(仮泊)。夜、ラジオでHのグループの遭難を知る。前穂高岳下又白岩壁で、あの時ゲレンデにいた少年の一人が宙吊りとなり、それを見取るようにHはその下の岩棚で凍死していた。

 晴れ上がった翌朝、連休中だったこともありHたちの遺体収容に数十人が集まった。狭く脆い岩棚、急峻な雪渓に危険なほど多くのクライマーたちがひしめいた。ほとんどが知り合いだった。前年の春以来、Hとの交流で知りあった先鋭クライマー達が、遭難の第一報から十時間ほどでこんなに集まったのだ。

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2004年1月5日

サマー デイズ・・・2

 60年代後半、「70年安保」で世の中は大揺れだった。大学はロックアウトされ、学園やターミナル駅周辺は終日催涙ガスの匂いが漂い、自衛隊を退官したばかりの私の立場は、若者のグループの中では常に微妙だった。

 西武新宿線中井駅の近く安アパートの二階の四畳半、誰が本当の住人か分からない出入りの多い部屋に、私は住んでいた。物質的には決して豊かではなかったこの時代、Hは中央線の国立で、広い米軍ハウスに女の子と住み、白いギャランに乗っていた。

 その米軍ハウスには、見たことも無かった欧米の登攀用具や装備、英語やフランス語の書籍や雑誌、これから進むべきヒントがいっぱい詰まっていた。政治の話は出ても居心地はよかった。私はそれまで属していた山岳会から少しずつ距離を置き、Hのグループも含め広くパートナーを求め登攀するようになり、登攀のスタイルも変化していった。

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2004年1月5日

サマー デイズ・・・1

 昨年暮れ、一冊の本を著者自身から貰った。以下は、本の内容とは全く関係は無いが、私(船長)の読後感である。「相談・カウンセリング」のページの推薦図書を、まずお読みください。

 

 気障で生意気なHのこと・・・
 1970年春、東京近郊、奥多摩の岩登りのゲレンデ(練習場)でHと逢った。4月は各山岳会が春の連休(積雪期登攀入門)に備え、新人たちを鍛えるシーズンである。夕暮れの岩場の基部に、翌朝からの登攀訓練のために三々五々、ヘッドランプを手にクライマーが集まり出し、焚き火に火が点けられた。間隔をとり幾つものグループが集まっていた。

 私(船長)は68年初冬、谷川岳一ノ倉沢で墜落し、療養後、再び上京して間もなくのことだった。病み上がりの、だるい身体を1歩1歩進め、幾つもの焚き火の中に友人の顔を捜し、Sを見つけた。その焚き火に照らされた見知らぬグループのメンバーは、ほとんどが高校生に見えた。

 餓鬼っぽい彼らの言葉からリーダーの2人はすぐ判った。KさんとHである。Kさんは痩身の物静かな男で、小枝で焚き火をつついていた。24歳だったと記憶している。童顔のHは歯切れの良い語り口で饒舌だった。20歳だった。第一印象は「気障な生意気な野郎!」だった。美人ではないが、小柄で素敵な女の子が彼の隣で頷いていた。

 Hは博識、戦略的思考と物言い、特に欧米の山岳事情に通じていた。大学の山岳部に代表される、伝統的な巨大遠征隊的登山スタイルが、最上の方法論と常識化されていた当時の登山界の風潮を、せせら笑うように批判していた。その知識、方法論の説得力は反論のしようも無かった。私も、同席していた若い子たちも彼の言葉に酔っていた。酒もしたたかに飲んだ。

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2004年1月2日

最後の世界一周は、黒潮に乗って

 今回の散骨は、大阪在住のNさんのお姉さまのもので、「絶対に黒潮本流に乗せてほし」いということだった。昨年は東京の方を八丈島で黒潮にお乗せしたが、この時期、黒潮の流れは、その時と若干変わっていた。八丈島にあった黒潮は、三宅島近くを流れ、神津島、新島の側を行ったり来たりしている。

 Nさんは、黒潮本流に乗れればどこでも構わない、外国でも良いという。私たちは、いろいろ調べ、結論として串本を選んだ。本州最南端潮岬は、1年中黒潮が一番接近している場所だ。沖縄やサイパン、グアム、フィリピンなども考えたが、どこも黒潮本流に乗るまで、何十マイルもあり、船で行くには、相当の時間がかかってしまう。

 神津島、新島にしても、冬のこの時期、波が荒く1時間の乗船でも結構辛いはずだ。Nさんのご姉妹、ご家族は、沖縄など南国でお正月を迎えたかったようだが、沖縄にしても黒潮までの距離は遠く、海は結構荒いのだ。

 遺言を残されたNさんのお姉さまは、活発で行動力のある方で、クイーンエリザベス号などの豪華客船で、何度も世界一周をしていたという。カリフォルニアにヘリコプターの免許も取りにいったという。そしてエピソードとして、病院の帰りに大阪城のホームレスたちに酒代を渡し、一緒に酒盛りをしていたというから、本当に豪傑だったのだなと思われる。

 2日の日、Nさん一行は、大阪から特急で串本にやってきた。2,3,4と天気の都合で日程をとっておいたが、最初の2日が一番海も条件が良さそうで、到着早々、船に乗っていただくこととなった。私たちは、午前中車で潮岬まで行き、海上を眺め、黒潮が岸を洗っていることを確認して来た。

 船は、斜め向かいから風を受け、右舷は飛沫が凄いが、快調に進み、潮岬沖合いに向かう。20分位して水の色が変わり、濃い藍となり、また水温計が20℃を指し、黒潮に入ったことが分る。確実に流れに乗って行けるようにさらに真ん中へ向けて進む。Nさんの姉妹たちは交互に、お姉さまの遺影を持ち、飛沫がかかるのも構わず、変わる景色と黒潮を亡きお姉さまに見せていた。

 黒潮の中、船を止めると、潮は、時速3.5ノットの速度で東へ流れていく。8個に分けて水溶紙に包まれたご遺骨には、それぞれのメッセージが付けられており、バラの花が飾られた。ご遺骨も花々も海に還すとあっという間に、潮に運ばれてしまう。お菓子や果物、ブランデーも捧げられ、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」が流れる中、黙祷をして式は終わった。

 帰り道、急に空は曇りだし、風も少し上がってきた。今度は左舷からの飛沫が凄い。全員にかっぱを着てもらい、ライフジャケットを着けてもらって正解だった。多少の横揺れもあったが、和やかなうちに無事港に帰り着き、皆責任を果たしたという充実感があった。

 船を下りると、渡船屋さんのおかあさんが、コーヒーを入れ、巻き寿司を作り、持て成してくれた。お茶を飲み、しばしお姉さまの思い出ばなしに花が咲いた。「細雪」のような大阪の四人姉妹の長女として、いかに皆から慕われていたかが良く分る。生きているうちにお会いしていたら、私たちとどんなに話があったことかと、口々におっしゃり、一人の妹さんは「きっとおねえちゃん、船買うてたわ」と。

 今年最初の散骨は、本当に天気にも恵まれ、素晴らしかった。その夜、私たちは、勝浦に泊まり、バスターミナルの前の小料理屋で、地元の料理を肴に酒を飲んだ。久しぶりに食べた鯨の竜田揚げの美味しかったこと。

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2004年1月1日

サンライズ、サンセット

 明けまして、おめでとうございます。

 この仕事をしていると、去年お会いした方は、ほとんどが喪中で、何と挨拶したらいいか困ってしまうのですが。とりあえず、一般的に、そしてそれ以外の方に。

 今年は、新年早々の仕事のため、元旦の早朝に家を出て車で紀伊半島、串本へ向かう。夜明け前の道は空いていて、スムーズに東名を走り御殿場を過ぎ、次第に富士山の迫力に圧倒される。晴天の元日、こんなに近くで生の富士山を見られるなんて、ひたすら感動。富士川のサービスエリアでご来光。

 沢山の人たちが、東を向いて待っている。雲が水平線近くにあり、大分上がってからの太陽であったが、初日の出には違いない。富士山と日の出を元旦に見るのは初めてで、また晴天で何だか今年は幸先良く、うれしくなってしまう。

 途中、渥美半島では、菜の花畑や、パンジー、が咲き誇り、楽しいドライブで、伊良湖に着く。ここから伊勢湾を鳥羽までフェリーで渡る。

 さて、鳥羽からが問題だった。お伊勢参りの渋滞である。関東に住んでいると関西の情報に乏しく、いろいろ疎い。道も通行止めなどがあり、山越えをして伊勢を抜け、その後42号線をひたすら走る。私は、ペーパードライバーで運転は、20年位していないので、船長がここでも1人で頑張る。本州最南端は、陸路を行くと本当に遠い。延々12時間のドライブで串本に着いた時は、丁度太陽が西に沈む時だった。太平洋に沈む夕日、そして名勝橋杭岩に夕陽が当たり素晴らしい景観が広がる。

 今回、船をお願いした渡船屋さんには、このときからすっかりお世話になってしまうのだが、お会いして早々、手作りの「さんま寿司」と「いちご寿司」をごちそうになってしまった。両方とも郷土料理である。

 「いちご寿司」は、寿司飯に〆鯖とゴボウ、にんじんの煮物が乗り、それを野いちごの葉っぱで挟んだ押し寿司である。ずうずうしく、鯛(名前が良くわからない地元の魚を薄作りにしてある)の刺身までごちそうになってしまった。どれも新鮮でとてもおいしい。

 そこの「おかあさん」は男の子4人を育て、2人は船頭をし、1人は船頭兼板前をしているのだが、本当に面倒見のよい肝っ玉かあさんという感じのとても素敵な方だった。

 そして次の日、いよいよ散骨である。

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