お客様の声・風の声 2006年12月
2006/12/30 「解放 (Release)」 (完全版)
2006/12/29 キヨさんの散骨2
2006/12/05 解放(RELEASE)
2006年12月30日
「解放 (Release)」 (完全版)
子供のいない私達夫婦は「義理で来なきゃいけない人達もいる中で、長時間読経を聴くのにつきあってもらい、その後“先祖代々の”なんて会ったこともない人達と一緒のせまい墓に閉じ込められるような葬られ方は嫌だね」と、多少ひねくれた考え方が一致する間柄でした。
夫婦といえども互いの個の世界を大事にしようという点でも一致していましたが、妻自身は、宇宙や自然、気や東洋医学などに興味を持って読書をしていたようでした。しかし44歳の春「まさか自分が!」という感じで卵巣癌を発症、手術~化学療法~寛解?
~再発~脳梗塞併発というプロセスを経て46歳で帰らぬ人となりました。
この間自ら癌を勉強し、代替療法を含め様々な治療にチャレンジする一方で、万が一の時は自然に帰して欲しいという想いを強めていったようです。
もうあとがないかもしれないと思えたある日、私は思い切って「どのように送ってほしいかをしたためてほしい」と頼みました。後日葬儀や埋葬について彼女の言葉をもってして両親を説得する必要があると考えたからです。
かろうじて動く右手を使い、ミミズがのたうち回ったような字で、家族だけの葬儀と海への散骨を表明してくれました。
それから約2週間、私と両親に見守られて眠るように逝った後、メモに記された妻の遺志を見せた時の両親はかなり複雑な表情でしたが、翌々日兄弟家族だけ10人の葬儀会場に現れた父親は「千の風になって」という詩を差し出し、この詩を朗読してほしいと言いました。
この詩は作者不詳ですが米国や英国で古くから伝承されたものが原型のようで、NHKなどでも取り上げられ、日本では新井満氏が歌にしています。
父はこの詩が好きで以前に書き留めておいたことを思い出し、あらためて読み直したところ、「自然に帰りたい」という娘の遺志は正にこれなのだと思ったそうです。
内輪の葬儀も一段落し私はインターネットで散骨の会社を探し始めましたが、たくさんの会社が散骨を提案している(=需要が急激に増えている)ことに驚きました。
その中で、多分小さな会社なのでしょうが、「風」という社名が目にとまりました。価格が分相応だったこともありますが、父が最愛の娘の遺志を置き換えた「千の風になって」のイメージに重なったからです。
その秋一番の快晴で、クルーの方も「こんな日は一年に何度とないというぐらい水が澄んでいる」と言う日、42フィートのクルーザーヨットで浦賀沖に向かいました。
「風」はヨット好きのオーナー夫妻が艇を生かすために始めたそうですが、舵輪を操るオーナーの飾らない人柄とクルーザーヨットという器の格好良さ、海の大きさなどが相まって湿っぽい雰囲気とはほど遠く、新たな旅立ちを予感させるようでした。
散骨の海域に着き、妻が好きだったジョニーミッチェルを流してもらう中、薄紙に包まれた粉状の遺骨をそっと海に入れました。深い青にゆっくり沈み始めた次の瞬間、薄紙が溶けてフワッと白く広がり、静かに海に同化していきました。
その時、(考えてもみなかったのですが)妻はこれまでの全ての苦しみから解き放たれ、心から自由になったことを強く感じたのです。新しい生命を得て自然に帰っていくのだと言っているようでした。花籠いっぱいの花を撒くと、陽の光できらきら輝く海面に、その場所を示すかのようにいつまでも花達は浮いているのでした。
46歳という若さで逝った妻も、海への散骨がこれほどまでにおおらかで無垢であることをわかった上で望んだわけではないと思います。
反対する人もいないわけではありませんでしたが、私は妻の遺志通り海への散骨ができたことが意味するものを心から感じることが出来ました。
時には海から蒸発して「風」になり、世界のあちこちを旅するでしょう。時には海に戻り、星に溢れる宇宙と言葉を交わすでしょう。
後日、ほんの小指の先ほど残しておいてもらった遺灰を銀のロケットに入れ、悲しみから当分立ち直れそうにない母にあげました。
野辺の送りの方法は人様々であって良いと思います。残された人達が社会生活上慣習に従う必要がある場合も多いのは事実ですが、海への散骨が素晴らしいものであることだけはこれからも友人達に伝えていきたいと思っています。
「妻よ 解き放たれて 風となれ」
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2006年12月29日
キヨさんの散骨2
キヨさんのことを書いてから大分時間が経ってしまったが、今年中に続きを書いて置かないと年を越せない。
キヨさんが亡くなって早1年、一周忌を前につれあいのNさん通称小鉄さんから散骨を頼まれた。去年亡くなったときには、そんな話が出てなかったので、てっきりお墓に入るのだと思っていた。しかし、生前小鉄さんに「海に撒いて欲しい」と言っていたらしい。
それは4年前になるが、偶然に彼女の友達だったジャズシンガーを、私たちが散骨したことが切っ掛けだったのかも知れない。そのことは2002年3月、この風の日誌にも書いたのだが、最初の旦那さまと最後の恋人が同じ赤いバラをそれぞれ持って船に乗り合わせたというエピソードなのだが。その話を彼女にした後、きっと何となく小鉄さんに散骨の話をしたのだろう。
11月5日、夜型人間ばかりが午前11時30分に三崎港に集まる。ちゃんと皆遅刻しないで来るのか蓋を開けるまでは分からない。小鉄さんは前日皆に禁酒令をしいたそうである。結局2人来れなかったが、9人が遅れずにやって来た。
少々靄が掛かっているものの穏やかで温かく、キヨさんの散骨にしては、ものたらないくらいの好天である。水も素晴らしく碧い。
キヨさんがカスミソウを好きだったのは意外だった。一見派手で豪放な感じのキヨさんの心の中にそんな一面があるのは、野良猫や動物たちに優しい彼女の素直な少女的な部分なのかもしれない。私はキヨさんのためにたくさんのカスミソウと58本の真っ赤なバラを用意した。
小鉄さんから預かったキヨさんのご遺骨は本当に少ない。彼とは正式な結婚ではなかったため、ほとんどは彼女の兄弟たちにより、納骨されてしまったようだ。
その少ない遺灰を13個に分けて水溶紙に包むと粉薬の1包よりも少なく軽い。
大きな籐の籠に小さな赤バラで飾った遺灰の包みを置き、赤いバラで埋める。そしてその赤いバラを白いカスミソウの小花で被う。それはまるで生クリームでイチゴを隠したショートケーキのようでもある。哀しみが可憐にそして少しあまく包まれている。
真昼の海にいかにも海が似合わない夜族の面々、映画監督だったり、出版関係だったり、バーのママやマスター、そして元赤軍だったりと不思議な航海が始まる。そこにお酒とタバコは欠かせない。眩しい太陽の下、不健康でちょい悪なグループである。
音楽はもちろんジャズ。アート・ブレーキーの『チュニジアの夜』が好きだったという彼女のためにその曲を聴きながら行く。アップテンポのその曲は、散骨時に流すのは難しい。いろいろ考え、ご遺灰を海に還すときには『モーニン』を流した。そして帰りには『サイドワインダー』を。
それぞれが、紺碧の海にキヨさんを少しずつ還す。カスミソウ、カスミソウ、赤いバラ。そしてお酒。小鉄さんがサントリー角と牛乳をコップに混ぜ海に注ぐ。昔はミルチュウと言って、焼酎をミルクで割って飲んでいたが、最近はウィスキーに変えたらしい。皆、缶ビールで献杯する。
彼女がいないのに海も蒼く、空も青く、何という明るい光が降り注ぐのだ。それは憎らしいほどである。だから皆も陽気に思い出話、与太話。
陸に上がり、マグロのフルコースの宴会が始まる。皆、想像以上に散骨に感激していた。宴も進み、盛り上がるうちに、本にしよう、映画にしようという話が飛び出す。
そして、来年、映画はともかく、本が出せそうである。
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2006年12月05日
解放(RELEASE)
前略、今回は色々とありがとうございました。
あの後、何人かの人達に報告した際にも伝えたのですが、海への散骨というものは、考えていた以上に、素晴らしいものであると感じました。
これ以上は望めない程の晴天と、船長御夫妻のお人柄もあるのだとは思いますが、一言で表現するとすれば、「解放(RELEASE)」と言う言葉です。深く澄んだ青の中に、粉状の遺骨が沈み散った時、妻は苦しさから一気に解き放され、自然の中へ帰っていった。あるいは、新しい命を得たと心から感じました。
I家の墓は、浅草の小さな寺にある為、とてもせせこましいものです。あの中に、会ったこともない人達とともに閉じ込められることから比べると、なんと、自由で大らかなことか・・・! 実現してもらえるかどうかは解りませんが、私も海への散骨を希望しておきます。
他の業者さんの事はわかりませんが、船がクルーザー・ヨットであることも、悲しさを中和し、純粋な想いのみに浸れる要因かもしれません。
いずれにせよ、色々いう人もいないではありませんでしたが、妻の遺志どおり、海への散骨という形をとって、更に、彼女との絆が深まった気がしました。
これから会う人々に、海への散骨の素晴らしさを伝えたいと思います。ありがとうございました。
P.S.
写真、当日の空や海の色が、鮮やかに再現され最高でした。「カメラマンの腕でしょうね」と、お伝え下さい。
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