葬儀や散骨を巡る旅

変わってきた日本の葬儀事情や散骨の思い出も含め、連載で少しずつ紹介していきます。

02/20:アメリカ村の猫たちとパコの散骨 5 / パコを励ます会

変わり者の獣医さん

話は脱線していたが、パコの話に戻ろう。ヨットから帰り、私たちはパコを福生にあるペットクリニックへ連れて行った。日頃、病院に行ってもパコは暴れない。まして病気だからおとなしい。その頃猫エイズを治す薬はまだなかった。当面の対処療法を施してもらい、家に帰ると症状は治まり、パコは元に戻った。
猫をたくさん飼っている私たちは、去勢や避妊の手術、各種ワクチンなど、先生にはいろいろとお世話になっている。年間では半額でも60万円は越してしまう治療費を、わが社にデザインの仕事を出してくれ、一部を相殺にしてくれてとても助かった。先生は変わった人で、若いころ世界を旅し、ニカラグアで若い美女に出会い結婚してしまった人だ。ボランティアで小笠原に野良猫の去勢に行ったりもしている。私たちがヨットで日本を出る時には、いろいろな薬を用意してもらったりした。これの鎮痛剤は馬用だけど大丈夫とか、ほとんど動物用の薬だ。元来動物用も人間の物を体重に合わせ投与していたのだ。後日私たちは、ヨットでニカラグアへ行き、彼の奥さんの居た町、コリントに寄った。日本人と結婚したマリアは町でも有名だった。その港では、日本国旗を付けた私たちの船に、海外青年協力隊の若者たち男女5人がやって来て、私たちの貴重な日本食材で湯豆腐などを作ると美味しそうにみんな平らげていった。

無頼漢たち

さて、余命少ないパコのために「パコを励ます会」をすることになった。名目は、パコを励ます会だが、その実、アメリカ村の私たちの生活に興味津々な飲み友達の集まりである。四ツ谷荒木町の飲み仲間に、ゴールデン街の老舗有名ママなど無頼派の面々である。週刊ポストの「男の料理」の編集者など食べ物には、うるさい連中だ。私たちの準備は大変だった。バーべキューの材料だけでなく、美味しいおつまみも用意しなければならない。それに何か一品位作らねばと鴨ガラで出汁を取り、アメリカの料理の本を見て、スープを作った記憶がある。
都会のビルに囲まれて暮らす彼らには、広い青空の下、芝生の上のバーベキューは何よりのご馳走だったようだ。その頃は、うちの周りもほとんど空き家で、大騒ぎをしても誰も文句は言わない、1人一番奥の軍属のおばさん以外は。彼女はパンチパーマで、大阪弁で喋り捲るが、動物には優しい人である。「家賃なんか、向こうから取りに来い言うの、こっちから行ったら下駄ちびるで」と言っていたのが懐かしい。
何本ものビールを空け、ワインを飲み、日本酒、ウィスキーとすっかり出来上がった私たちは、蕎麦を食べに行こうと言うことになり、立川で評判の店に移動した。パコはそっちのけである。カウンターだけのその店は、私たちでほぼいっぱいになった。蕎麦が出て食べ始めると、「男の料理」のH氏が、「本返し」がどうのこうのといろいろ能書きを始める。私たちは、とんでもない奴を連れて来てしまったと、後から店のおかみさんにお詫びをした。

彼らの散骨

アメリカ村のご意見番の奥さんも、ゴールデン街のママも、荒木町の飲み屋のご主人も今はもういない。ゴールデン街のママの店には、俳優の原田芳雄や映画監督の若松孝二、高橋伴明、作家の沢木耕太郎、イラストレーターの黒田征太郎等が出入りをしていて、そこのママは誰彼構わず呼び捨てにしていた。「おい、ヨシオ」とか、「トオル表から氷持って来て」など人を顎で使い、その飾らなさが人気だった。荒木町のご主人も店の鍋が評判になり、何度もテレビに出ていたが、手書きのメニューや名刺を書く字の上手さ、「座頭市」の物まねが得意で芸事の好きな陽気な性格、気っ風の良さにみな惹かれていた。
二人はうちの船で城ケ島沖に散骨をした。青く澄んだ海に解き放たれた彼らの遺灰は白く大きく広がり、見えなくなり、海面に浮いた赤いバラの花が別れを告げていた。

(2020/02/20)