葬儀や散骨を巡る旅

変わってきた日本の葬儀事情や散骨の思い出も含め、連載で少しずつ紹介していきます。

02/25:アメリカ村の猫たちとパコの散骨 6 / パコは小笠原の海へ 1

猫たちの埋葬

7㎏以上あったパコの体重は徐々に減り、毛にもつやが無くなった。その頃の猫の寿命は今ほど長くない。放し飼いにしている家も多かったし、予防注射もそれほど無かった。外に出るから蚤もいて、回虫やサナダ虫がお腹に寄生する。いつも私が蚤退治していたが、捨てられていた子猫は、全身蚤だらけの事が多く、蚤取り櫛で梳いては、洗剤を溶かした水のビンに入れ駆除していた。

たくさん飼っていただけに、多くの猫の死に立ち会って来た。原因不明の病気だったり、車に轢かれたり死因はいろいろだが、一匹を残し他はみな12歳までは生きなかっただろう。ほとんどの猫は、家の周りに埋めて土に還した。不思議ではあったが、本当にあっという間に土になってしまうのだ。1回だけ掘り返した事がある。水道の工事があると聞いて、工事で掘って猫の遺体や骨が出てきたら嫌だと思い、友だちと2人で恐る恐るスコップで掘ってみた。すると、良く見れば毛皮だったかもしれない3㎝位の泥だらけの物が出てきた。しかし他は何も出ず、見事にすべてが土だけだった。彼女と私はホッとしてため息をつき、大いに安堵した。

念願のヨット

貧しかった私たちは、10年間徹夜しながら働き、世界一周出来る中古のヨットをやっと買うことができた。14フィートのディンギーから始めて4艇目のヨットである。その船は、カナダ人のお医者さんの家族4人が、世界一周して日本で売っていった物だ。3歳と6歳の男の子が乗っていたが、仕事と学校の都合で、旦那さんと子供たちは先に飛行機でバンクーバーに帰り、奥さんだけが船に残り後始末をしていた。

小笠原諸島父島へ

私たちは船を自分たち仕様にし、試運転に小笠原まで行くことにした。パコは、大分痩せて少しずつ元気が無くなっていたが、まだ大丈夫だろうと思い、仕事と猫たちの世話をスタッフに任せて出航した。小笠原へは週に1本フェリーが出ていて、25時間で父島に着く。私たちの船では、急いでも5日は掛かる。小笠原へ行くのは2度目で、向こうには友だちも多い。

八丈島の黒潮を越え、見渡す限り紺碧の海、鳥島、スミス島、ベヨネーズ列岩、聟島諸島などを通り父島に着いた。ここは、南太平洋などを廻り、太平洋を渡って来た外洋ヨットの日本の玄関でもある。カナダから来た3人の子供を含む一家、アメリカから来たカップル、ノルウェイのカップルの奥さんはお腹が大きい。日本を出て、南太平洋を目指す日本人グループもいた。

パコの危篤

父島に着いて寛いでいると、友だちの家にアメリカ村から電話が入った。パコが危篤だと言う。私はあわてた。週1回の小笠原丸はちょうど出てしまったところである。しかし、貨物船共勝丸が次の日に出る事を知り、チケットを買い、急いで支度をした。

共勝丸は定期的に小笠原に来ている貨物船だが、客船より安く、食事付きで一般の人を5人まで乗せてくれる。学生などがそれを利用しているという話は聞いたことがあった。乗船すると船長は下着のTシャツ姿で迎えてくれた。船室はエンジンルームの隣のかなり音が響く2段ベッドの部屋だ。男性客との相部屋になるのを気遣ってくれた船長は、私を和室の3人家族と一緒にしてくれた。5歳の女の子を連れた中年の夫婦は、長野から父島に仕事を探しに来たのだという。小柄な旦那さんと太って大柄な奥さん、女の子はとても人懐っこくて、すぐに私と遊びたがった。私と彼女はデッキに出て、じゃんけんをしたり、しりとりをしたり、歌を歌ったりして過ごした。

部屋に戻ると、暑さに参っていた彼女のお母さんが上半身裸だったので、びっくりし、なるべく見ないようにした。私は船長に、東京と電話が繋がるようになったら、教えてほしいとお願いしていたが、ヨットよりは早いものの船のスピードは遅く、パコの事が気がかりで落ち着かなかった。

(2020/02/25)