葬儀や散骨を巡る旅

変わってきた日本の葬儀事情や散骨の思い出も含め、連載で少しずつ紹介していきます。

02/28:アメリカ村の猫たちとパコの散骨 7 / パコは小笠原の海へ 2

パコの死

陽が沈み、夕食の時間になった。船には食堂のようなテーブルが置いてある狭い部屋があり、個々に食事をする。私が行った時には、みんな終わったようで、誰も居なかった。私はごはんとおかずの皿を受け取った。おかずはサバの味噌煮である。サバは船長が釣ったという話だ。この船では、いつも船長が釣った魚が出るらしい。サバは主人の大好物で、主人だったらどんなに喜んだ事だろう。ところが私は、大の苦手で食べられず、他には何もないので、仕方なくひたすら白いごはんを食べた。

デッキに出ると辺りは真っ暗で、海は波しぶきだけが見える。しかし、空は満天の星である。その美しさに心を奪われるが、心配は消えず、ただ祈るばかりだ。八丈島を過ぎた辺りで、やっと東京に電話が繋がった。すでに遅かった、少し前にパコは息を引き取ったという。どうやら苦しまずに静かに死んだようだった。その時の悲しさは、とても言葉にできない。ただ、涙が流れるだけである。私は、暗い海を見ながらひとりで泣いていた。その時、不思議なことが起こった。たくさんのイルカが現れ、私の目の前を船に沿って泳いでいる。船を追い越し、潜っては、飛び跳ね、まるで私を慰めてくれているようだ。ヨットで走っている時にも、イルカとはよく出会う。船の舳先を通ったり、追い越したり追い越されたり、彼らは愉快な友だちだった。でも、こんな時に、来てくれて、私の悲しみを和らげてくれるなんて、神様に感謝したくなった。しばし、彼らの乱舞に見とれたが、やがて、彼らは闇に消えて行った。

パコの葬儀

あくる朝、竹芝桟橋に着き下船すると、急いでタクシーに乗り、東京駅から中央線で立川に行き、また、タクシーでアメリカ村に帰った。パコは、私たちのベッドルームの床のタオルが敷かれた箱の中で、冷たくなっていた。やせて、毛並みもボロボロで、元気な頃の面影もない。私は、しばらく呆然とし、彼の傍らに座っていたが、小笠原の主人に電話をし、彼を待たずに火葬することにした。

まず、連絡の着くパコのファンに連絡し、電話帳でペットの火葬車を調べ、翌日に葬儀をすることにした。火葬車は2tトラック位のコンテナで、後ろの扉を開けると、お焼香が出来るようになっている。私からお焼香をし、うちのスタッフ、パコのカメラマン、近所の友だちが続いた。花で飾られたパコの遺体は、その車の火葬炉に入れられ、1時間ほどで骨になった。私たちは、人間の時と同じように、骨を拾い骨壺に入れた。関東の一般の骨壺の四分の一位の大きさの白い骨壺である。私にとって、葬儀は父の葬儀以来で、将来自分が散骨の仕事をするなど、その時は思いもよらなかった。

パコの散骨

それから10か月後、私たちは会社と猫たちを友人に任せ、東京湾を後にした。たくさんの食糧を船に積み、たくさんの本を積み、主人は山の道具とスキーも積み、私は三味線と着物を積んだ。実は1か月間、友だちの友だちに頼み、即席で三味線の弾き語りを1曲習ったのだ。もちろん初めてである。もし旅行中、会社が破産したり、お金が無くなったら、外国でたこ焼きでも作り、大道芸でもすれば、日々のパン位稼げると思ったのだ。ヨットは、風で走るので、燃料代は掛からない。そのためにスペイン語も1年だけ勉強した。

パコの骨を積み、私たちは鹿児島に向かった。最後に船の外装を鹿児島の友だちにやって貰うためである。船の塗装を終え、出航しようとした時、なぜか私たちの船「オンディーヌⅣ」の前の岸壁に小さな子猫が捨てられていた。見送りの友だちも皆、連れて行けと言い、誰も引き取ってはくれない。時間もなく、仕方なく、とりあえず小笠原まで連れて行くことにした。 父島への途中、私たちは兄島の近くでパコを散骨した。まだ、「葬送の自由を進める会」が散骨をする前の話で、粉末化をすることも知らず、骨壺から1本ずつ手で出し、海に入れた。悲しくて悲しくて、涙が止まらなかった。本当にいい友だちだったのだから。パコに別れを告げ、父島に着くと、友だちに頼み、拾った子猫の飼い主を探してもらった。白地に灰色やベージュの模様がぼろ雑巾のようで、ボロと呼んでいたが、船にもすぐに慣れ、とても可愛い子猫だったが、すぐに母島の女子高校生の貰い手が決まり、寂しくもホッとした。

そして、いよいよ皆に別れを告げ、本格的に航海が始まった。釧路から日本を出て、アリューシャン列島沿いの北周りの旅、まずアラスカを目指す。

(2020/02/28)