風の中の私 7

──やっぱり懲りない書く事は──

アフガニスタンを憂いて

遂にアフガニスタンは、タリバンの支配下になってしまいました。アフガニスタン紛争後、新共和国が成立し、カルザイ大統領が国を治めるようになったとき、私は密かに彼を応援していました。アフガニスタンの事は殆ど知らないのに、夫が1979年春にパキスタンとアフガニスタンに行き、その頃の話からその風土に親しみを持っていたのです。そして用水路を作っていた故中村哲氏を尊敬し、活動を支持していました。彼の死は、本当に世界の宝を無くしたと思いました。壁の絵まで塗りつぶすなんて酷すぎます。

夫はカメラマンの助手として、親友だったSと一緒にカラコルム、K2の写真を撮りにパキスタンに行っていました。エベレストの次に高い山K2に登るには、パキスタン政府の許可を取り、ポーター60人を雇い、大遠征隊で行きます。羊や山羊、鶏、野菜、小麦粉等沢山の食料をポーターが運んで行くのです。荷物の無くなったポーターから、日当を貰い帰って行きます。3カ月の行程でした。しかし山を下り、2人は解雇され、帰りの飛行機の日にちまで放浪生活になりました。ペシャワールからカイバル峠を越え、ジャララバードからカブールまで行ったのです。その頃のアフガンのその辺は、長閑で川の水が清く、緑の並木が有り、砂漠のオアシスと言った雰囲気のとても良い所だったと言います。スカートの短い人も化粧の濃い人もいて、パキスタンより女の人は自由に見えたらしいです。当時のタリバンは意外にも知的な若者たちにも人気だったNGOの様なグループだったと言います。元々アフガンは部族社会で、部族ごとに長(おさ)がいて治められていたようです。夫が帰って来てすぐ、ソ連のアフガン侵攻が有りました。

丁度アフガニスタンが良かった最後に夫たちは、青春の旅を続ける事が出来たようです。パキスタンのラワルピンディにあるミセス・デイビス・プライベートホテルの話は良く聞きましたし、手紙も出しました。イギリス風の小さな洒落たホテルで、朝、テーブルに付くと、それぞれの場所に、ピラミッド型に盛ったジャスミンの花が有り、ボーイが紅茶を運んで来ると、そこから花びらをヒラヒラと紅茶に入れ、残りはさぁーと払って下に落とすそうです。その光景の香りが漂って来るようで、その話が好きでした。庭師は、棘を取ったバラの花を夫の耳に挿してくれたそうです。

いつかそこのホテルに行って見たいと思っていました。放浪が始まると、もうそこのホテルに泊まれず、彼らは安宿を探して泊まり、カレーも「without meet」と言って肉なしのスープを食べていたようです。放浪前に近所の子供たちと仲良くなり、旅行者だと値段が高くなる物を子供たちに買って来て貰ったり、一緒に魚釣りをして遊んだそうです。写真で見ても、向こうの子供たちの目は澄んでいてとても綺麗ですが、正直で、働き者で、英語もしゃべります。大人は怠け者が多く狡かったと言いますが、勿論、例外はあるでしょう。

安宿に泊まるようになると、子供たちが「Mr.Kitadaが困っている」と言って、小さなゴジラのオモチャや欠けた小皿、スプーンなどを持って来てくれたそうです。私はその話を聞いて涙が出ました。そんな頃、夫からお金を送って欲しいとコレクトコールが有りました。私は急いで2万円をカーボン紙に包み、航空便でミセス・デイビス・プライベートホテル記付にして送りました。カーボン紙に包むと中身が分からず、盗られないと聞いていました。パキスタンでは2万円は大金です。お金が届き、彼らは有頂天です。子供達も連れて中華料理をお腹一杯食べたそうです。すると子供の1人が「Mr.Kitada贅沢をしちゃいけないよ」と言われたそうです。

彼は7月4日のアメリカの独立記念日に帰って来ました。私は友だちと横田基地に行っていて留守でしたが、帰って逢うと夫は20㎏痩せ、ブカブカのズボンをベルトで縛って、日に焼けて、髭をはやし、まるで別人、アフガンで買った帽子を被れば、現地人に見えたでしょう。今ならタリバンのようです。彼が買った帽子はベレー帽に縁を付けたような北部の部族の帽子だそうです。タリバンもいろいろな帽子やターバンの人がいて、部族毎にそれが違うそうです。中には村全体が、夜になると泥棒になるというような所も有って、そこには泊まるなと聞いていたそうです。

女で私の様な軟弱な者は、とてもそんな旅を出来ないと思いますが、とても羨ましく、ヨットの旅の前には、シルクロードをワーゲンのキャンピングカーで行きたいとか、シベリア横断鉄道の旅とか、いろいろ夢を膨らませていました。今でも、少し前までは、半分本気でシベリア横断鉄道がモスクワまで5万円なら等と考えましたが、食費や途中の滞在費などを入れれば、格安飛行機の方が安いと思いました。

いつでもどこでも私は行きたいのです、熱帯雨林以外で危険が無い所なら。パキスタンの子供たちにサッカーボールを送る約束も忙しさの中で出来ませんでした。彼らはもう45歳を越えているでしょう。パキスタンとアフガニスタンは日本人から見ればよく似ています。でも、政治体制は違うし、アフガンは変わってしまいました。あまりに原理主義的にならず、彼らの為の平和で自由のある彼らの国になってほしいと願うばかりです。

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