風の中の私 15

──やっぱり懲りない書く事は──

ユニークな女友だち

美大系の人たちは個性的な人が多く、音大系の人達より、ラフで面白い人が多いと思います。芸術家の卵ですからね。その中で、一際個性の強い女の人がいました。彼女と会ったのも運命の出会いを感じます。私の周りには、いないタイプなので余計そう思うのかも知れません。全く出会う必然性が無いのに、必然的であったかの出会い、それは私にとっては、結果はとにかく、いつも良かったと思える出逢いです。

1975年の事です。私は、飯田橋にあるモリサワという写植学校へ行く事になりました。そこのクラスの隣の席に座っていたのが彼女でした。私より1歳年上で、ボブヘアーで一見地味な感じの人でした。丸い眼鏡を掛けていましたが、滝平二郎の切り絵のような目が印象的でした。私たちは、休み時間に二言三言話す内に、年も近い事から、あっと言う間に気が合ってしまいました。2人とも映画好きで、気取らず本音を言うタイプだったからかも知れません。私は友だちの紹介で、無料で習える権利を貰い、気軽に来ていましたが、彼女は授業料を払って真剣に来ていました。約1カ月の授業です。同じような学校は、もう1社有りましたが、そこは数学(算数)のテストがあると聞いて、止めたそうです。私は、カメラマンの夫の助けになればと思って、習い始めましたが、彼女は、「うちのは絵を描く以外は何も出来ないから、私が食べさせなきゃならないの」と言います。旦那様は、地方の農協の大物の息子さんで、彼が武蔵野美術大学に入学が決まると、学校の直ぐそばに一戸建ての家を建ててくれたそうです。吹き抜けの素敵な家を建てたのに、冬、寒くて暖房費まで貰えず、天井を作ってしまったと言っていました。「気が弱くて、ボソボソとしゃべり、突っついたら泣いちゃう様な人よ」とも言います。彼女自身、造形大の2期生で映像・写真学科を卒業生し、テレビ関係の会社に居たそうです。でも、2人ともおふざけや真面目な事を茶化すのが好きな様で、飼っている犬にも雪之丞と名付け、昔、長谷川一夫が演じた「雪之丞変化」を思いっきり茶化しています。
タモリが好きだと言う彼女の話は、いくら聞いていても聞き飽きません。「えっ」と言う様な私には信じられないアウトサイダーの世界です。例えば、学生の頃、友だちと黒い服を着て、夜の日比谷公園に行ったと言います。茂みから睦まじくしているカップルを覗くためです。とにかく、何でも可笑しな事として楽しんでいるのです。日活ロマンポルノも「山本晋也監督の『未亡人下宿』シリーズが笑えるのよ」とか、「痴人の愛」のナオミちゃんごっことか、笑える事がとても好きなのです。

ある時は、東名高速の入口付近に立ち、「関西方面、乗せて下さい」と書いた紙を持って、ヒッチハイクしたそうです。沖縄まで行ってキャンプをしたそうですが、「危なくなかったの。」と聞くと、「ちょっと危ない事もあったけど、平気よ」と言っていました。
テレビ局の下請け会社で働いていた時は、当時「田舎へ帰れば」というディレクターが出るコマーシャルが流行っていましたが、こき使われ、背景を持って「木になっていろ、動くな」と言われて、嫌な上司だったから、「お茶に雑巾を絞った水を入れてやった」などは日常茶飯事、万引きなども当たり前だったようです。当時は、今よりも万引きに関して、いたずら感覚の学生が結構いたのです。友だちなども喫茶店に行っては、灰皿を持って来たり、胡椒引きを持って来たり、夫などは、水筒にお砂糖をたくさん入れて来た事があるそうです。

私は極めて真面目な学校で育ち、友だちも真面目な人ばかりでしたから、驚く事ばかりでした。彼女は頭も良く、感じも良い人でしたから、ユーミンの歌に出て来るすれっからしではないし、ユーモア溢れる人と言う感じでした。私は悪い事には縁が無いので、いつでも正々堂々としていましたが、彼女は弱みが多いのか、いつも頭を低く丸めてゴメンナサイ、ゴメンナサイと小さくなってしまいます。悪い事と言えば、昔は電車のキセルなどは、普通にしていたと思います。ひどいのは、夫の場合です、お金が無くて、谷川岳へ行くのに、下車駅の土合でホームからフェンスを乗り越え、仲間とどんどん走って逃げたそうです。

写植学校での最終試験で、彼女は100点、私は95点。私はいつも、うっかりミスをしてしまう慌て者です。2人で、一旦写植の勤めをしても、私はすぐ辞め、機械を買い、自宅でやるようになりました。すぐに彼女にも声を掛けて来てもらい、一緒に仕事をするようになりました。2人でいるとおしゃべりに花が咲いてしまうのですが、仕事は一生懸命やりました。新米の2人なので、試行錯誤でやり直してばかりですが、勤めではないので気楽でした。でも、何時間も掛けて打った植字が、印画紙に写っていないという失敗などすると、彼女の落ち込み方は、尋常では有りません。「クー」と塞ぎ込んで、どうしようも無いのです。そして、突然、「ユーミン聞きたい」と言い出します。当時、荒井由実だったユーミンはレコードを2枚出した所でしたが、レコードは手間が掛かるので、私たちはカセットテープを買い、朝から夜までそれをずっと掛けて仕事をしました。しまいにはテープが伸びてしまいました。
未だにユーミンは好きで、よく車の中でも聞いていますが、やはり古い歌が好きですね。「やさしさに包まれたなら」は一番好きですが、今、SORAと一緒に寝て、SORAの頭の中に顔を埋めると本当にやさしさに包まれている気がして別世界にいるようです。

その後、夫が撮影するので、カラオケの機械を持って帰って来た事がありました。その頃、カラオケの機械は珍しく、その晩は3人で知っている歌を歌いまくりました。朝まで歌っていたでしょうか。次の日は、声が出ませんでした。それ以来カラオケは、付き合いでよっぽどでなければ行きません。後にゴールデン街に行くようになり、有名な流しのギター弾きマレンコフと仲良くなりました。60歳過ぎの小柄なおじさんでしたが、ロシアの革命家に似ているからとその名前を賜ったそうです。気前よくお金を払うので、トオルさん、トオルさんと贔屓にされ、普段歌など歌わないので「銀座の恋の物語」などデュエットしてお茶を濁していましたが、彼の存在が好きで、居れば呼んでいました。そのマレンコフが凄いのは、5㎝を越えるような厚い歌集のどこにどの歌があるか、ほとんど暗記しているのです。お客さんが、曲のタイトルを言うと、364とか238とか歌詞の載っているページをズバリ言います。それも面白くて、他の人が歌うのをよく聴いて、知っていれば一緒に歌ったりもしました。楽しいお酒でした。

そういえば、もう一人私と同じ年でしたが、四谷の桃太郎で会った女性は、少女時代札付きの不良だったそうです。A子ちゃんですが、暴走族のリーダー格で、彼女が離婚した時には、手下が100人も迎えに来たそうです。会った時は、多少貫禄がある人と言う感じでしたが、もう昔ほど、悪くは無さそうでした。

私が昭島の米軍ハウスに引っ越した頃、近所に猫の事を頼めるような友達が欲しくて、エイボンレディ、化粧品のセールスをやりました。知らない家に行くには、当時セールスがいいと思ったのです。義姉がやり手で、保険会社に勤めていましたが、エイボンとタッパウエアも扱って、1軒に3つの品を営業していたのです。それで私もエイボンを始めたのですが、歩き始めて最初の1軒で、もう友達が出来、それで止めてしまいました。そこの家も米軍ハウスを改造したような家で、庭に手作りのブリキのキャンピングカーが有りました。私がノックすると同い年位の女の人が「お茶を飲んで行けば」と誘われ、話していると1歳年上でしたが話が弾み、すぐに仲良くなりました。彼女はダスキンの代理店をやっていましたが、美人で頭が良く、男勝りで、ハキハキしていて、すぐに好きになりました。家も近く、行き来するようになり、彼女の2歳半位の女の子からは、猫のお姉ちゃんと慕われるようになりました。とても可愛い子で、私は気に入っていましたが、彼女が再婚すると、新しい赤ちゃんが出来、そちらを可愛がっていて、成長してからもそれが続き、何となく疎まれているようで、可哀そうな気がしました。もう疎遠になりましたが、幸せになっているといいと思います。

前の記事次回に続く