癌ステージⅣを5年生きて 14

散骨の風ディレクター KYOKO

小豆島でパート

夫の発癌など大変な一年であったが、島の生活にも慣れて来て、私たちはもっと本格的に畑をやろうと、家から車で10分位の所に1反位の土地を借りた。休耕地なので水は来ていて、知り合いになった隣の畑の人から小型トラクターを借りて、土を耕し肥料を入れて、畑地を作った。しかし広すぎて半分も使えない。猪が出るので、柵も作った。キャンプ用の大型テントを張り、農機具を置いたり、休憩場所にした。もう、しっかり農家の夫婦の体(てい)である。収穫物も増え、2人では食べ切れないので、東京の義妹たちにも送った。

私はオリーブの収穫期を終え、島の職安でパートの仕事を探していた。少しでも収入の足しになればと思っていたが、やはり高齢者の仕事などほとんどない。しかし、探しているうちに、偶然家の前の井上誠光園の社員寮で清掃の仕事が見つかった。寮には誰も居なくて、鍵を預かって週、2,3回2時間程度掃除をすればいいのだ。誰にも管理されない気軽さと憧れの裏庭を独り占め出来るので、喜んで働いた。3階建てで地下が有り、私は各階の廊下とトイレ、食堂、ホールに掃除機を掛け、床を乾拭きする。オリーブの収穫期になると5人、10人と毎日若いバイトの人が日本中から集まって来た。そうなると今までの仕事に調理場と地下の風呂場の掃除、ボイラーを付けて湯を沸かす仕事も加わった。風呂場は男女に分かれていて、それぞれ10人位ずつ入れる広さだった。私は好きでやっていたが、夫はあまり賛成ではなかった。

老人ホームでお手伝い

それで、何とかカウンセリングの仕事はないか、掛かりつけ医の平井クリニックの院長に相談すると、「カウンセリングねぇ」と言って考えてくれたが、先生の経営している老人ホームで何か必要があるかもと言われ、遠くはないので行ってみた。室長さんに会い、話して見ると、人手が足りないから、何でもいいから出来る事を手伝ってほしいと言われ、私は断れなかった。私は「NO」と言えない人なのだ。「NO」は、夫の得意とするところで、大体頼むと「嫌や」という。私はとうとう苦手とする介護の仕事に引きずり込まれてしまった。最初は洗濯物を干したり畳んで仕分けしたり、掃除やお茶くみ、食事を運んだり、老人たちの塗り絵等レクリエーションの世話をしていたが、そのうちトイレの付き添いなどもするようになった。それでもベテランの上司からは、「この役に立たない人は何なの」と言う感じで、いつも睨まれていた。

そんな冬が終わろうとしていた頃だ。体には何の変調も無かったが、突然トイレで血便に気が付いた。

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