癌ステージⅣを5年生きて 29

散骨の風ディレクター KYOKO

引越し人生

私たちは、実にたくさんの引越しをしている。子供の頃も私は東京近辺で、夫は北海道の中でそれぞれ5回はしていて、結婚してからは、事務所のも入れると25回以上になる。最初の西落合のアパートから武蔵野の庭付きのアパートに移った時は、お風呂も湯沸かし器も有り、駅からはバスで、会社までも遠くなったが、まるで夢の様だった。庭も4畳半位の広さがあり、武蔵野台地の黒い良い土だった。試しに野菜を植えると簡単にキュウリやナス、トマトが肥料も上げずに、米のとぎ汁だけで見事に育った。

次は、昭島の米軍ハウスで、住んで居た友だちが出たので、引き継いで入った。そこには煙突式の大きな石油ストーブが有り、外のドラム缶と繋がっていた。隣が大家さんで、その敷地に1軒だけ建っていて、前は桑畑だった。古くても2LDKの洋風な家は憧れだった。ここなら私の念願だった猫が飼えるので、会社の上司から貰って飼うと、あっと言う間に増えてしまった。その頃は、去勢手術の事も知らなかったから、次第に大家さんからも苦情が来るようになった。

桃源郷

そんな時、立川のアメリカ村を知り、家賃が高いのが問題だったが、思い切ってそこへ越した。アメリカ村は昭和記念公園に隣接する米軍ハウスの集合地区で、大阪のアメリカ村より前から正式な住所である。住人にはマイク真木氏をはじめ、ミュージシャン、切り絵画家、手芸家、翻訳家、デザイナー、カメラマン等自由業の団塊の世代の人達が多く住んで居た。家はボロでベニヤ作りだが3JDKと広く、屋根付きのガレージまで有り、フェンスの無い芝生の庭は快適そうだった。前後左隣にアメリカ人家族が住んでいて、それも楽しかった。しかし、横田基地勤務の彼らは、やがて基地の中の住宅に移り、10軒位ある1区画は一番奥の1軒を除いて私たちだけになっていた。もう猫の天国である。去勢や避妊手術をしていても、段ボールに6匹などと置いていかれ、気が付けば40匹にもなっていた。当時はそこでデザイン事務所をしていたが、通勤のスタッフ達はみな、車かバイク通勤で、駐車し放題だった。芝生や、木の上、私道、コピー機の上などで寝転ぶ猫たちは、徹夜仕事の多い私たちの憩いでもあった。交通の便は悪いが、静かでカッコウもやって来る、その世間から閉ざされた場所はとても居心地が良く、私は今でも桃源郷だと思っている。

ニューヨークに住んでから

私たちは、夢が叶いヨットで日本を出た訳だが、その間は後輩夫婦が、会社と猫を10年間の約束で継いでくれる事になった。しかし、実際はいろいろな事があり5年しか続かなかった。

私たちは大西洋から自由の女神の側を通り、ハドソン川のエンパイアステイトビル対岸正横、ニュージャージー側のハーバーにヨットを置いた。しかし、海からの潮と川の流れがぶつかるその揺れは大時化(おおしけ)に近く、とても寝られない。しばらくチャイナタウンのホリデーインなどペット可ホテルを転々とし、遂にセントラルパークの側に庭付きのアパートを見つけ買う事にした。それとは別に事務所も借り、42丁目、47丁目、17丁目などより良い所へと引っ越した。

より良い所へ

東京に戻ってからは、アメリカ村は猫の為に残し、アルバイトをしていた人形作家の女性に猫の世話と家賃なしを交換条件に住んで貰った。私たちは麻布、四ツ谷、代々木、晴海、三浦、横須賀、小豆島、お茶の水、湯島、横須賀に住み、事務所も富久町、四ツ谷、二番町等新宿区と千代田区で移転を繰り返した。

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