癌ステージⅣを5年生きて 87

散骨の風ディレクター KYOKO

演劇少女になって

私は、高校に入ってから演劇部に入り、演劇にのめり込んだ。授業中もセリフを覚えたり、内職をして、学園祭のための稽古に明け暮れていた。予習も復習もしなくなり、入った時の上位の成績はあっという間に落ちた。担任が苦手の数学の教師で、指されて出来ないと、その大きな目玉でじっと睨まれた。その目の恐ろしさは今も忘れない。ついに赤点を取り、追試に追い込まれた。追試に受かるまで部活は出入り禁止になった。その頃、他の部員はみんなで日生劇場にジャン・アヌイの「ひばり」を観に行っていた。部長にも怒られた、赤点だけは取るなと。そんな成績の悪い部員が多くなると先生から睨まれる。

未熟な演出

2年生になり、演出をする羽目になった。皆敬遠して、他にやる人が居なかったからだ。3年生は当然大学受験で来ない。私は、ジャン・ジロドゥの1幕劇を見つけ、これなら60分で終わるし、キャストの数も合うと思った。16歳の私は、ただ頭でっかちで世間の事を何も知らず、ラブシーンさえ、どうすれば良いのかが分からなかった。九段高校の演劇部は、過去にコンクールで日本一に何度かなった伝統あるクラブだ。浪人中のOBや怖い先輩がしょっちゅう現れた。そもそもこんな難しい劇が出来る訳がないと言われ、演出プランとテーマを聞かれた。私は劇中のヒロインの「あなたは美しい」と言うセリフに惹かれ、それがテーマだと思っていた。その時は、いろいろ非難されたし、上手くも出来なかった。でも今、私は正しかったと思っている。先日、新国立劇場の小ホールで、ジロドゥに対する講演会に行った。その時、ちょうどこの「ベルラックのアポロ」が取りあげられて、私が考えていたのと同じ事を言っていたのだ。無邪気な少女がアポロに遭い、出世のこつを教えて貰う。会った人全部に「あなたは美しい」と言うだけだと。少女は実行し、「美しい」と言われた人は、皆幸せな気持ちになり、彼女は出世する。私は常々、愛を持って接すれば、結果は帰って来ると思っていた。この「美しい」というセリフは「愛」だと思っていたから。私はヒロインのセリフを言いたかった。でも、もっと適任な無垢で美人の友達がいた。残念なことに演技は上手くなかったが。キスシーンなど飛んでも無かったが、何とか納得してもらい、形にはなった。3年では、アンドレ・ジイドの「田園交響楽」を脚色し、散々非難された。実に大それている、文豪の作品をいじるなど。そして後輩の演出で、完全に直され、タイトルも変えられた。私は自信を持って居たわけではないし、遊びで脚色しただけだから、直されても異論はなかった。そして私も舞台に上がった。

11PMと女子高生

これも不思議な因縁だが、昔、日本テレビで11PMを放送していた頃、日テレでアルバイトをしていた先輩が、定刻に学校から追い出された私たちに稽古場を提供してくれた。私たちは制服に鞄を持って、日テレが借りていたそのビルに「11PM」ですと言って入って行ったのだから傑作だ。考えるとそれが今の「風」の事務所があるビルの1室だった。その先輩はとても足が長く、優しくて、日テレ前のレストランで良くご馳走をしてくれた。正社員になっても人望が有り、重役になったとも聞く。

劇団四季の試験

私は高校を卒業しても大学に行くつもりはなかった。経済的に私立に入る事は出来ないし、勉強もしていないのに国立などとても無理だ。それも学ぶならフランス文学を学びたかったから、国立なら東大だ。だがその年、学園紛争で、東大は入試が無かった。それよりも私は演劇を続けたく、劇団四季に入りたかった。しかし難関には違いない。前に受けた女の先輩は落ちた。

母は、就職を望んでいた。学年でも就職をするのは女子10名位だった。私は不本意ではあったが、一応就職の希望を出し、生命保険会社の面接を受けた。生命保険会社は受かったが、四季の試験には落ちた。一次試験の筆記はほとんど出来た。ただ一つ「Cogito,ergo sum」だけが分からなかった。デカルトの「方法序説」だ。「我思う、ゆえに我あり」得意分野なのに、原語までは知らなかった。実技は何をしたか覚えていない。面接で憧れの影万里江さんに会えた事だけが嬉しかった。演出部を選べば受かって居ただろう。私の後、2年続けて後輩が演出部に入った。

ラッキーな電話

私は仕方なく就職をしようと思っていたが、まだ来年もあると思い、劇団四季の浅利慶太氏に手紙を書いた。私の絶対四季に入ると言う覚悟をである。私は思った事をしないでは居られないのだ。しばらくして、電話が有った、浅利さんが直々に会って下さるという。私は信じられなかった。夢の様だった。もう、空まで舞い上がっていた。

その頃の私は、化粧もせず、髪も長くストレートにしていた。地味で目立つ所の無い、痩せたノッポの女の子だ。私はそれが自分だと思っていたから、そのまま会いに行った。母もその成り行きに驚いていた。初めて降りる参宮橋の駅、線路沿いに歩き、商店街を通り、その外れに劇団の建物があった。入口でドアを引っ張り、開かずにいると中から荻島真一さん(後日、彼が亡くなってからだが、彼の奥様が「風」に散骨を頼みにいらした。彼のではなく彼女のお母様のだった)が内側にドアを開けてくれた。電話をしてくれた人が私を浅利さんの部屋に案内してくれたが、値踏みをされているようだった。その人は後に私の上司に成る人で、彼は最後の十円玉で劇団四季に電話を掛け、大家さんに交通費を借りて、四季に面接に来たと言う。私は緊張していたが、怖くはなかった。浅利さんは優しかった。私の熱意に感動し、会ってくれたのだ。そして文芸部所属の研究生と言う事にしてくれた。演技のレッスンも出られるなら出ても良いと言う許可を貰い、入所式の時には、一般に受かった研究生と一緒に自己紹介もした。同期で有名になった人は居ないが、一つ上に故木内みどりさんがいた。

バイトとの両立

しかし、不幸な事に私はもう、親に養ってもらう事は出来ないのだ。自分で働き、やって行くより仕方なかった。演劇をすることを父にも母にも許して貰った。私は頑固だから親の言う事を聞くような娘ではない。でも、皆に言われた「役者じゃ、食っていけないぞ」と。そんな事は百も承知だ。私は、保険会社を断り、新聞の求人欄でアルバイトを探した。すると運のよい事に恰好の仕事があった。神田駅そばのいなり寿司屋だ。朝8時から午後2時まで、ウェイトレスだ。時間は理想的である。終わってから3時には参宮橋に行ける。

私は浅利さんから優遇されていた。当時、私がもっと要領が良ければ、浅利さんに売り込むチャンスはあった。それでなくても消極的な私はチャンスをものに出来なかった。母はいつも「人を押しのけてもやらなければ駄目よ」と言っていた。演劇の世界では、本当にそうだと、今は思う。私は四季に居られることで満足してしまった所がある。それにバイトとの両立では、レッスンなどとても出られず、機関紙の編集を手伝うのが関の山だった。貧しい男子の研究生は、夜中に地下鉄工事のアルバイトをしていた。昼間は稽古、夜は舞台では、まともなバイトなど出来ない。当時から四季は正団員にはお給料制だったが、団員でも下の方の人はアルバイトをしていた。

劇団四季での楽しみ

いつでも四季の芝居は見放題だし、あらゆるイベントに参加し、富士急ハイランドの「子供のためのミュージカル」が大好きだった。子供たちの素直な反応に客席と舞台が一体となり、これが本当の演劇だと感じた。そして何より素晴らしかったのは、大町の山荘を只同然で使えた事だ。森の中のこの山荘は側に高瀬川の支流が流れていて、雰囲気がとても良い。温泉も有り、誰も居ない時に独占して泊まった事もある。結婚前、夫との最初のクリスマスは、友だちも呼んでここで過ごした。それも劇団を止めてからである。

日生劇場にはいつも裏から入り、舞台の袖の照明の場所を通って、客席に入る。空いている席に勝手に座った。ゲネプロ(舞台稽古)にもいつも参加したが、プロの現場はとても興味深かった。私は今でも浅利さんを尊敬している。彼はスキャンダルが多く、ワンマンだから、いろいろな人が彼の悪口を言う。それでも私は、彼が皆の前で話す演劇の本質、その熱意にいつも感動し涙が出た。私は演劇そのものより、浅利さんが演出するジロドゥやアヌイやサルトル、シェイクスピアの世界が好きだったのだ。今の四季のミュージカルは嫌いで観に行かない。

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