癌ステージⅣを5年生きて 90

散骨の風ディレクター KYOKO

漁師の町で

年が明けて、七草も終わった頃、私たちは三浦半島をドライブし、家を探した。アメリカ村にはまだ2匹の犬と7匹の猫が居た。荷物も大分ある。その家と晴海の部屋の全部を移動出来るような、家を探していた。どうすればそんな家を見つけられるのか見当もつかなかった。夫は当てが有ると言っていたが、不動産屋に行っても無理だろうと思った。それで三崎の村の様な町の中を走って見た。まわりは見事な大根畑、キャベツのタネをまき始めた畑もあった。この辺は温暖だから、春にキャベツ、夏はスイカ、秋は畑を休ませ、冬に大根を収穫している。畑の間の道を下って行くとサバで有名な松輪漁港に出た。サバ漁の船がたくさん舫(もや)われている。私たちは、村の人に相談すると、漁協へ行けと言われた。そこで「この辺に、空き家を貸してくれる家はないでしょうかね。」と聞いてみる。その時、漁協に来ていた漁師の奥さんが割り込んで来た。運よくその人は、町の顔ききといった感じの人で、私たちの事情を聞くと、少し考え、「2、3軒有るから聞いてあげるわ」と言う。この辺は民宿が多く、廃業してしまった所もあるのだ。三浦海岸の駅前にマホロバマインズというリゾートが出来てから、民宿はダメになった。

港の前の家

この辺りは、鈴木さんが多い。あっちもこっちも鈴木さんだ。だから皆船の名前で呼ぶ。連れて行ってくれたのは、港の目の前にある漁師の家だった。私たちより一回り位年上で、おばあちゃんと呼ばれている女の人が出て来て話を聴いてくれた。そして奥へ行き、しばらく話してから、息子とおじいさんが出て来た。空家の民宿は同じ敷地の隣に一緒の塀に囲まれてあった。部屋が5部屋有り、台所、お風呂、トイレが広い。トイレは一応水洗で洋式も1つ有った。縁側が有り、庭もそれに沿っていて、物干し台が有った。私たちはここで良いと思った、犬2匹と猫2匹が飼えるなら。アメリカ村のアンズ以外の猫達は、家を任せていたSさんが拾ったので、彼女に任せた。私たちが拾ったり引き取った100匹強の猫達は、去勢をし、避妊手術をし、予防注射をして、放し飼いにしていたから、家猫より寿命が短かった。猫エイズに移ったのもいた。どこかに行ってしまった猫達も。アンズはモモと姉妹の三毛猫で、家で飼ったアメリカ村の猫としては最長で16歳まで生きた。

大掛かりな引っ越し

結局、家賃15万円と言う事で、話が決まった。相場が分からなかったが、私たちの方から言い出した数字だ。それ位なら出しても良いと思ったのだ。大家になる鈴木さんにとって、それは魅力的な数字だったらしい。私たちの仕事が散骨と聞いて、びっくりはしたが了承してくれた。そこの家には、小学生の女の子と男の子がいた。私たちの引っ越しは、荷物が多く漁村の人々も驚いていたと思うが、私は気にしないようにしていた。雰囲気に馴染めそうも無かったが、夫は社交上手だから、男衆は勿論、近所の奥さん、おばあさんも皆彼に任せた。

物は金なり

部屋はすべてが畳の和室だった。そこにニューヨークで買ったアフガンの絨毯2枚を敷き、NYから船便のコンテナで運んだアンチックのテーブルと椅子、ロッキングチェアー、タンス、本棚、柴田雄一郎作100号の大きな絵、クイーンサイズのベッド、大きなソファーベッドが2つを置き、襖を取って洋風リビングを作った。それにもちろん冷蔵庫やテレビ、洗濯機、諸々の段ボールの数々。北側の暗い部屋は物置にした。引っ越しを経験した事のある人は、2度と嫌だと思うだろう。私たちだって、いつも自ら荷造り、荷ほどきであるから、もう嫌だと思う。でも、嫌な事はすぐ忘れ、未来のより良い暮らしの魅力に向かう。何十回も本当に懲りていない。今でも魅力的な話があれば乗っかり、ぼやきながら引っ越しをするだろう。引っ越しの度に、随分物を捨てるが、荷物は一向に減らない。この家に3年位住んだが、ここを出る時、隣のおばあちゃんが、家の出したソファーや家具などのごみを見て、つくづく言った「みんなお金だったんだよ」。

三浦の自然の中で

私にとっては、初めての田舎暮らしが始まった。前は港、すぐ海である。100m位行くと漁協が有り、魚の水揚げや小魚をさばいている。バス停までは、坂を延々と上り17分位掛かる。そこから三浦海岸の駅まで15分は掛からない。バス停の側に郵便局とガソリンスタンドが有り、あとは畑だ。家の側に雑貨屋さんが1軒あった。私は村の人には1人で話せず、いつも夫の陰にいた。都会から来たいじめられっ子の気分である。それでも一緒に犬の散歩に行った。どちらも今時珍しいような典型的な茶の中型犬雑種で、雄のゴルビーと雌のアルビーだ。どちらも老犬である。そして私たちも健康のために、隣の江奈湾、その干潟、毘沙門、盗人狩りと海岸の岩場を歩き、時には風力発電のある宮川公園まで散歩をした。夫はいつもカメラを持ち、三浦の自然を撮っていた。それは今でもホームページに載っていると思う。三浦には、知らないいろいろな花があり、四季それぞれが新鮮だった。スイカズラ、エンゼルトランペット、アガパンサス、ノウゼンカズラ等々。雪は降らないが台風は来た。私たちが住んで居た頃は津波など来ると思わなかった。それでも私は考えていた。グリをリュックに入れ背負い、アンズはバッグに入れ、犬2匹を歩かせ、急坂を5分登れば大丈夫だと。夫は関東大震災の時の津波が、丁度その辺で止まり、そこに3地蔵が立っていると村の年寄りに聞いた。

夫と松輪の人々

夫は三浦の田園風景が好きだった。こんな所をモーガン(英国の車)で走りたいとも行っていた。前からこの辺に住んでもいいなと思っていたようだ。そして夫はどんな田舎に行っても、地元の人と話し、人の心を掴むのが上手だ。いい人だと思われる。散歩中に、イカ漁師の小さな孫娘の写真を撮り、家に届けてあげると、港を散歩中、取れたてのイカを沢山貰った。大家さんからは時々、松輪サバやゴマ鯖、金目鯛などを頂いた。散歩の途中に大根やキャベツを貰って、一旦置きに帰った事もある。

夫はかつて都内の空手道場に通っていた。ここでも体育館で、出稽古をしていた道場が同じ流派なので、行くようになった。そこには、近所の子供達も来ていて、夫はそれなりに強かったから、村内を歩いていると、尊敬の念を込め「先輩」とか「押(お)忍(す)」とか言われて楽しんでいた。子供たちの親の夫を見る目も変わって来た。ある時、大玉のスイカが届いた事がある。

百足退治

晴海から連れて来たグリとアメリカ村のアンズは、雄と雌だからすぐに慣れた。そして、そこで拾ったのが子猫のSORAと3カ月半位の時雨だ。もう1匹オスの子猫を拾ったがすぐに死んでしまった。この家では、私は虫や百足に苦労した。前に知り合いの人から、靴の中に百足が入っていて刺された話を他の人からも聞き、百足は連れを殺されると復讐に来ると聞いて怖かった。でも、百足がしょっちゅう出るので、猫が遊んで刺されても嫌だし、私は長いハサミを持って退治することに夢中になった。小さいのも大きいのもハサミでズタズタに切った。大きいのは15㎝位あり太かった。

盗聴

平和な漁村に突然来た私たちは、村人達に何と思われていたのだろう。まあ、悪い人達ではない程度か。大家さんも、家賃さえ払ってくれればいい、と言う感じだっただろうが、後から聞いてびっくりした。子供たちが来て「盗聴器が付けてあるんだよ」と言って顔を見合わせて笑う。「えーっ」、私たちは信じられなかったが、一応付けられそうな所を、隈なく探して見た。でも見つからなかった。夫は「嘘だろう」と言ったが、気味が悪かった。今になって思えば、付けられていても当然のような気がした。どこの馬の骨とも分からない私たちを置いているのだ。家族で相談して付けたのかも知れない。聴かれていたとしても、聴かれて困るような話はしていない。テレビの音や下らない話や仕事の話、夫婦喧嘩、聴いて面白い事など無かったと思う。悪企みだの、犯罪に関する話は全然無い。悪人では無いと言う事は、分かったかも知れない。色っぽくも無いし、あまりに詰まらなくて、途中で止めたのではないか。

そのうち、隣の若夫婦は離婚した。女の子は奥さんが連れて出て行った。年下の男の子は、お父さんが良かったのか残った。

三浦の去り時

そして去り時が来た。ゴルビーが老衰で死んだ事もあった。この場所が、東京から帰る時、横横の高速を降りてから長く、時間が掛かるのも問題だった。そしてゴミ捨て場の清掃当番も頼まれて、夫がやったが、上手く出来ずクレームが来た。長く居れば、消防団だの祭りの役員なども頼まれただろう。

途中、猫たちを義妹に頼み、奄美大島に行った事がある。「死の棘」の島尾敏雄で有名な加計呂麻島へ行った。将来そこに住もうかと思い、見に行ったのである。「フーテンの寅さん」の撮影にも使われたそうだが、島の反対側は、あまり人も住んでおらず、船を置くのに格好の入り江もあった。ハブを捕まえれば、1匹5000円と聞いたが、歩けばハブがいるのだ。ジャングルのような道もある。お店はほとんどなくて、沖縄の離島と比べてもかなり原始的な感じがした。それに区長さんに聞くと、「来てくれるのは歓迎だ。村の行事に付き合って、伝統的な踊りや料理も覚えてほしいし、若い男手は足りていない」と聞き、これはダメだと思った。

結論、横須賀に住むことにした。しかし、私は歌でしか横須賀を知らなかった。横須賀がどこにあるのかも知らなかった。でも、横横のインターの側に条件のいいマンションがあった。犬猫可で家賃も松輪よりずっと安い。駐車場も付いている。船を置いているマリーナまでも近い。私たちは今まで、相場の3倍位高く払っていた事に気付いた。

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