癌ステージⅣを5年生きて 3

散骨の風ディレクター KYOKO

私の家系では、母と祖母がガンで亡くなっている。他に思い当たらないが、やはり遺伝もあるのかも知れない。なぜか男系家族で女子は短命だ。

「風」は、後継者が見つかり、夫が65歳でリタイアすることになった。東京近郊で大きなヨットを維持することは、とても贅沢な話で、私たちは、全国を日本の太平洋沿岸を廻ったときにいろいろ港を見て来たが、温暖で波が静かな瀬戸内海、小豆島が良いと思い視察に行った。オリーブの島、「二十四の瞳」で知られるこの島は、高松からも姫路からもフェリーで1時間、近所にはコンビニがあり、町にはモールもあるので、スーパーを始め生活必需品は何でも揃う。生協の配達も来るので、不自由なく暮らせそうだった。船もマンションを買えば、桟橋付きの置き場が安く使え、そのマンションも高台で海が目の前である。大きな窓が開くバスルームからも海が見え理想的な住まいであった。2DKでテラスも広く中古で値段が手頃な上、リゾート用に作られただけに共用の庭にプールまであった。難はバス停から上り坂を15分位歩く事だけだ。住んでいる人たちも地元の人より、移住して来たリタイア組などが多く、のんびりしていて土着的でないのも良かった。

東京生まれの私には、自然への憧れも強く、釣りや野菜作りも楽しみだった。話はすぐに決まり、12月の仕事に限をつけ、1月半ば、四トン車2台猫3匹の大移動を決行した。遠く長い陸路にフェリー、猫たちには大変だったと思うが良く我慢してくれた。

しかしヨットの回航は大変だった。真冬の太平洋を夫と友だちの2人で横須賀を出たが、途中御前崎の側で、荒天になり、機関の故障から船に海水が浸水し遭難、幸い無線を通じて保安庁に助けられ、船も2人も清水港に避難することができた。船は修理し、春まで清水に置くことになった。清水はヨットが盛んで、交流していた友だちも多く、いろいろ助けられたのも幸運だった。

さて小豆島、部屋いっぱいの荷物の中、やっとベッドを作り眠る場所を確保。荷物の林の中で眠っていた私は、ドスンという大きな音と共に目が覚めた。ベッドと積み上げられた段ボール箱の隙間に私が落ちたのだ。うちのベッドは、アメリカ製で普通より大分高さが有る。私は鎖骨が折れていて、すぐに救急車で地元の病院に運ばれた。引越し早々、恥ずかしい事である。横須賀に居た時にも私は何度もベッドから落ちていたが、スペースがあったせいか何のことはなく、すぐにベッドに戻り眠っていたのに。

今回は手術が必要で、高松の整形外科病院に入院することになった。特別室しか空きベッドが無く、広くて応接セットなど備わっていたが、1泊1万円であった。それでも東京に比べればはるかに安い。讃岐弁の看護師さんは皆のんびりしていて優しいが、食事の味付けが全体に甘かった。4,5日入院後リハビリは、小豆島の病院ですることになった。私はもともと丈夫なたちで、子供の頃、軽い麻疹で38℃の熱が出て以来熱が出た事がなく、病気にも掛かった事がない。しかし、40歳半ばを過ぎてから手術をするのは今回で4度目である。椎間板ヘルニアの内視鏡手術、乳がん、両目白内障、白内障の手術を除けば、手術は嫌ではなかった。それが今や手術は10回を数え、身体は傷だらけである。

鎖骨が治ってすぐ、今度は堤防から岩場に飛び降りて、尾低骨骨折だ。それは、ただそっとして治すしかなかった。

前の記事次回に続く