癌ステージⅣを5年生きて 4

散骨の風ディレクター KYOKO

私は現在大腸癌ステージⅣで、転移を繰り返し、出来る手術はすべて済ませ、肺に転移した複数のガンを抱えたまま治療法がない状態でいる。治療を止めて1年以上が過ぎ、去年の初めには、今年の3月には駄目だろうと、親しい人にはそれとなく知らせていた。ホスピスに体験入院もしたが、不思議な事に私は凄く元気な儘だ。最初から病人らしく成ったことがなく、身体には苦痛が全くないまま、食欲は普通だが6㎏以上太った。今は、とても死ぬとは思えず、それでも先はないのだろうと思いながら、本を読んだり、ブルーレイでオペラを見たり、手芸で息抜きをしている。勿論仕事を手伝い、大まかにではあるが家事もしている。

病気の事は、先で詳しく語るので、それまでの小豆島の話をしたい。小豆島は、思っていた以上に素晴らしい島で、あらゆる魅力に溢れていた。その昔、若い頃は自然派で登山にも良く行ったが、ニューヨークに行って以来、その魅力のとりこになって、ついには住んでしまった。ニューヨークにはそれだけの人を惹きつける魅力があり、エネルギーに満ち溢れてた唯一の場所、絶対的都会なのだ。それは28年位前の話で、9.11以後はまるで変ってしまい、トランプ氏が大統領になってから、そしてこのコロナが始まって全然違う街になってしまった。

1992年日本から2人でヨットに乗り、北太平洋アラスカ周りで、北米大陸を南下し、パナマ運河からカリブ海を通り、ニューヨークまで行き旅を休んだ。何しろ私たちは、日頃から根拠なく健康に自信があった。仕事にも頑張りがきき、徹夜も厭わずエネルギッシュに働き、夜中まで飲み歩いたり、病気のことなど考えもしなかった。

その反面、やはり自然も大好きで、アラスカの氷河に魅了され、アメリカ大陸の大地、その雄大さに地球そのものの本来の姿を見て感動した。日本でもこの仕事や趣味で、全国をかなり回った。北は網走オホーツク、南は沖縄の波照間島、西は与那国、東は小笠原、日本海、瀬戸内海、東シナ海、石巻や福島、山形、金沢、鳥取、鳥羽、串本、高知、北アルプスも南アルプスも好きである。

それでも小豆島に来て住んで、本当にこの島を好きになってしまった。半日もあれば1周できてしまう小さな牛の形をした島、住人は約3000人、島の人は泥棒が1人いるというが、平和に満ちた島は、日本の中でも貧富の差が少なそうで、特別貧しい人は見ない。起伏に富んだ地形が生む景観は、寒霞渓などの名所を始め、島のあちこち見どころがいっぱいで飽きない。年に1度行われる農村歌舞伎の舞台も神社の境内周辺も面白い。「二十四の瞳」の撮影場所は、夫の子供の頃のようだそうで興味深い。かどやの胡麻油の工場がこの島にあるとは知らなかったが、土庄(とのしょう)の港の側は胡麻油の臭いでいっぱいだ。北の方の地区には醤油工場がたくさんあり、蔵の風情に情緒がある。2年に1度開かれる瀬戸内アートフェスティバルの会場に島全体がなるため、土蔵などを利用した小さなアトリエも増えている。島中央の小高い山の上には、大きなホテルと別荘地があり、森の中に点々と小さな家が建っている。最初は、その雰囲気が好きで中古の別荘を探したが、丁度いい物件がなく諦めたところ、後で聞いて驚いた。正にその時、その管理会社が倒産していたのである。それ以後、その辺一帯は、水道が出なくなった。その森は、途中から未舗装で、いろいろな動物が現れる。猿に鹿、リス、うさぎ、猪、熊はいないだろうが、あらゆる小動物がいるようだ。私たちは、海岸の石垣で狸を見つけたし、マンションの駐車場には、一度30匹以上の猿の群れが現れた。閉園になった孔雀園の孔雀もうろうろしているという。 

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