癌ステージⅣを5年生きて 33

散骨の風ディレクター KYOKO

手術翌日

朝の回診で、国土先生を先頭に肝胆膵外科の先生がゾロゾロと続き、各ベッドを廻られた。午前中に採血をし、ベッドの上で寝たままレントゲンを撮る。水を飲むことは許されたが、口の中の渇きは取れず、乾燥状態の口の中はずっと気持ちが悪かった。そして最初のリハビリは、まずベッドサイドに立ち、足踏みをする事だった。食事は抜きだが、お腹も空かず、痛み止めが効いていたので、辛いほどの痛みは無かった。

ナースステーション前の部屋

手術の翌々日、私はICUから看護師室前の病室に移された。4人部屋である。そこは手術後の患者が入る事になっているらしい。異変があっても看護師室の前なら安心と言う訳だ。この日から鼻の管を外され、器械で呼吸の練習をする。点滴のスタンドに尿のカテーテルと腹部の液を抜くドレーンを付けたまま、看護師さんに付き添われて廊下で歩く練習も。採血とレントゲンは明日まで続き、入院は10日程で終わる予定だ。5分粥が出た。看護師さんは傷口のガーゼを変え、全身を拭いてくれる。私の傷は、左と右の乳房の中央をお臍の上まで切られ、お臍の所で?マークを描き、右脇まで真直ぐに切られている。角丸の直角状にホッチキスの針が約5㎜間隔に刺さっている。「Oh my God !」アメリカ人なら、こう叫ぶだろう。私の頭の中も英語だ。「おや、おや」と、言う感じもある。

夜中の事件

その日の夜だった。点滴のスタンドは薬が無くなると鳴る装置が付いている。その音を聞いて看護師さんが様子を見にやって来る。その装置が時々なぜか勝手に鳴り出し、看護師さんが止めてくれるまで鳴り続ける。その夜は特別酷く、止めても止めても5分位で鳴り出してしまう。私も眠れないし、周りにも迷惑で気が気ではない。看護師さんに言っても「大丈夫ですよ」と気にしてくれない。そのうち、他のベッドから怒鳴り声が聞こえて来た「うるさくて眠れない。出て行ってくれ」と言うのである。私は居たたまれず、起き上がって、前の部屋のナースステーションに駆け込んだ。「あの部屋には居られないから他の部屋に移して欲しい」と懇願。看護師さんは、怒鳴っている患者さんに、我慢をしてくれるように言ってくれた。皆手術後の痛みで辛いのを我慢しているのだ。しかし傷ついた私は、「絶対に部屋に戻らない」と言い張った。「看護師室でも廊下でもどこでもいいから移して、ベッドは自分で運ぶから」と言って聞かなかった。人に迷惑を掛ける事は死ぬほど嫌なのだ。「夫に電話をしたい、来て貰いたい」とも言った。半狂乱だったのかも知れない。

私の妄想

その後、点滴の音は止むようになったが、その後の記憶がない。私は妄想状態になり、その中で小さい暗い小部屋に移され、夫が大きな冷蔵庫を担いで来るのだ。私は、「重かったでしょう」などと言い、安心して落ち着く。

あくる朝、目が覚めると、私は自分のベッドの上に居て、そこは前の日と同じ部屋だった。私は個室が空くのを待ち、直ぐに部屋を変えてもらった。最初から個室の希望を出していたのだ。贅沢なのは分かっていたが、私は人一倍神経質な所があって、人と一緒だと眠れない。どうしても人が居る時は、全ての人が寝て、寝息が聞こえて来なければ眠れない。若い頃はそんな事は無かったのだが、いつの頃からか、夫以外の人が同じ部屋で寝るのはダメだ。自意識が過剰なのは元々だが、寝ている人に迷惑を掛けたくないと言うのが強い。お互い様という気持ちにはなれないのだ。

恥ずかしい過去

その癖、恥ずかしい事を言うと、酔っぱらって居酒屋さんのトイレで寝た事が2回ある。1回目は四ツ谷の行きつけの店の小パーティで、ニューヨーク帰り、寝不足の空きっ腹で成田から直行した時、2回目は鹿児島で周りの人たちから、大きな湯飲み茶わんにいろいろな種類の芋焼酎を次から次へと飲まされた時。その時は、友だちの留守番電話に夫と2人で歌を吹き込んだりし、最後は夫がホテルの人に「妻です、妻です」と言い訳をしながら担いで入った。

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