癌ステージⅣを5年生きて 34

散骨の風ディレクター KYOKO

病院徘徊

私は順調に回復し、リハビリだから歩くように言われていた。それを良いことにパジャマのまま点滴スタンドを引っ張って、エレベーターに乗り、1階の売店でお菓子を買い、タリーズコーヒーでカフェオレを飲み、ケーキを食べていた。体重は全然落ちない、歩く速度も落ちていない。世間は少しずつ春らしくなり、東大の桜並木が楽しみである。私はすこぶる元気、とても大手術をした人とは思えない。最初から体の異常を感じていた訳ではないし、体調としても何の変化もない。時々、脇腹の傷口が疼く位だ。そして退院前日、ホッチキスの抜針をし、予定通り10日目に退院した。次の直腸・子宮手術は4月下旬になった。

猫たち

我が家では、猫たちが歓迎もせず、クールに不思議そうに見ている。それでも私だと解ると寄って来て、一応すりっと体を突ける。親密になるには、もう少し時間がいる。猫は人間を含む環境に慣れるまで、その飲み込みに若干時間が掛かるのだ。でも、我が家の今の猫たちは環境の変化にもめげず、逞しく獣医さんに行った事はほとんどない。トイレの中のウンチはいつもしっかりしている。私は猫たちを見ているだけで幸せである。居てくれて有難う。

東京の日常

私は部屋で寛ぎ、休めるのは今の内なので、病人を装う事にした。この日は、義妹が用意してくれた秋刀魚を食べる。彼女は料理が得意で、時々持って来てくれた。小豆島から戻って来ると、東京の夜の車の喧騒に久しぶりにびっくりした。でも、不思議にこういう音は慣れてしまうものだ。夫は忙しく、毎日女坂の事務所に通い、神津島に行き、葉山に行き、会社のトラブルの処理等やったことのない事務仕事までこなしていた。

大食堂三四郎

1週間後に採血と診察のため、東大病院に行く。予約をしていても病院とは待たされるものだ。特に異常は見られないと言うことで安心し、帰りに私たちは、病院の大食堂三四郎で食事をした。ここには何でもある。食券式で昼時はいつも混んでいる。私は、ここぞとラーメンを食べる。夫はいつでもどこでもカレーを食べる。それ以外の選択肢がない。夫は年を取ってからラーメンを食べなくなった。それで私はラーメンを食べる機会が無いのだ。この食堂は、普通に美味しい。不味くはない、カレーとラーメンしか知らないが。

東大赤門から中学時代の追憶

通院のついでに初めて赤門を通った。大学のキャンパスは木が多く静かで、散歩には最適だ。私たちの時代は、安田講堂事件が有り、卒業の年、入試も無かった。私も中学までは東大コースに居たので、日比谷高校に行った友達は一浪したのか、他の大学へ行ったのか。一橋中学は越境入学がほとんどで、医者の子供がやたらに多かった。それに比べ、地元組は商店や町工場の子が多く、みんな成績が悪かった。私はその中間、元は地元、現越境と言ったところ。スパルタ教育で有名で、宿題を忘れたりすると廊下に正座をさせられた。体育の先生は全員剣道の竹刀を持っていて、すぐに連帯責任と言われ体育館で正座をした。音楽の男の先生は、牛乳瓶の底のような眼鏡を掛け、質問に答えられないと出席簿で頭を殴られ立たされた。もちろん服装や遅刻に厳しく、帰りには本屋さんに寄ることも許されなかった。遅刻をすると校門で生徒手帳を取り上げられる。私はそれが怖くて1度だけ水道橋から学校までタクシーで行った事がある。そのお陰も有り、1年2年は無遅刻無欠席だった。教育熱心で教え上手な先生も多く、歴史と国語の先生は特に素晴らしかった。私は1年生の時、英語の時間に恥をかいた。「Do you have a pen?」を読まされて、「ド ユ ハバ ペン」と言ったので、先生に凄く叱られた。その先生の発音は「What is your name?」も私には「ワッチョネーム」としか聞こえない。しかし恥をかいただけに、頑張って勉強し、中学までは英語が得意科目になった。

黄金時代と奇遇

厳しくはあったが、それだけに不良も居ず、いじめも無かった。この中学時代は正に私の黄金時代で、学校に行くのが嬉しくてしょうがなかった。友だちに恵まれ、知識を身に着ける楽しさも知り、学校の往復の道も飛ぶように歩いていた。12クラスが3学年だから、ほとんどの子は知り得ない。それが後の人生で偶然、同学年の子や2つ先輩の人と同じ空気の中に居た事を知る。それも変な類似で知り合うのだ。一人はヨットで世界1周(夫婦で)を2度もしているM君、もう一人は世界の果てと言ってもいいようなアリューシャン列島のアッツ島で会ったSさん。太平洋戦争の玉砕で有名なこの島は、アメリカのコーストガード20名と犬1匹の島で、普通の人はこの島に入る事は出来ない。私たちは、ヨットの浄水器の故障で緊急避難として寄り、先輩のSさんはカメラマンで写真を撮るために、何年もアメリカの役所に申請書を出し、やっと許可された。7月4日独立記念日という日に、奇しくもお互いに着いたのだ。私の人生はなぜか奇遇に溢れている。

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