癌ステージⅣを5年生きて 50

散骨の風ディレクター KYOKO

引っ込み思案の恥ずかしがり屋

今回で50回になる。本当は引っ込み思案の恥ずかしがり屋で、あまり表に出ない。夫はまるっきり逆で、外交的で恥ずかしいとか、奥にいるとか言う事はなく、何でも自分から出て行き、誰にでも話かける。だから私はいつも夫の影に隠れてしまう。でも、舞台などで何かを演じるのは、素の私を出すのでは無いから好きだ。夫はやはりその反対に生の自分しか出せない。この人は自意識があるのかしらと、時々思う。

そんな私が、自分を出してこんなに書くなんて驚きである。勿論、他人の評価は怖い。幸い読者が少なく、いじめる人もいない。前にブログを書いた事はある「猫のグリとヨットの旅」というタイトルで、探せばまだ出ているはずだ。そちらは写真が多く、2人の共著だが、今見ても胸がキュンとなる。もう、年を取ってしまって、ブログのやり方も忘れてしまったし、ツィッターやいろいろなSNSも出来ない。今まで私的なものを書かないでいたのも批評に臆病だったからだと思う。傷つきやすいし、コンプレックスも多いのだ。

時々大胆

でも、寿命が短くなって怖いものが減っているのは確かだ。もう、「矢でも鉄砲でも持って来い」というような開き直り的強さも出て来たのかも知れない。しかし、思えば私は、自分の為にした事というのが少ない、趣味を別にすれば。変に聞こえると思うし、嘘だと思うだろうが、夫と正義が第一、いつも人の事が気になってそれが優先だった。自分の事はどうでもよく、人に尽くす事が喜びだった。偽善者なのかしらね。家族がいなければ、困っている人達のボランティアなどを純粋に出来るチームがあれば、していたかも知れない。一番したい事は孤児院だった。親の居ない子や飢えている人を見るのは堪らない。しかし、私には足かせがある。私の最大の任務は夫を幸せにすることである。昔、エチオピアの子供たちが餓死して居た頃、私は本当に彼らを救いに行きたいと思った。日本の家1軒分のお金があれば救えるのなら、銀行で借りても現地まで自分で物資を届けたいと思った。でも、みんなに笑われ、とてもそんな事は無理だと止められた。例えお金を寄付しても、そんな物は末端で消えてしまうとも言われた。ボランティア団体の人に電話をしても、「1人にたくさんは寄付してほしくない」と言われた。「大勢の人から少しずつ集めたい、そうでなければ、たくさんお金を出した人が口を出すから」と。

飢える者のDNA

結局私は、赤十字に100万円、国際ボランティア団体に100万円を寄付した。それ位は、出来る事は、しなければ罰が当たると思っていた。その頃、私たちは世界一周出来るヨットが手に入り、夢の絶頂にいた。その裏にご飯も食べられず死んで行く人がいる。私は飢えた事が無い。でも、終戦後5年に生まれた私には、飢えのDNAが入っているのではないかと思うほど、また、お米1粒でも粗末にしてはいけないと育てられたせいか、食べ物を残すことが出来ない。そして、飢えている人や猫等を見れば食べ物をあげたくなる。私は本の読み過ぎか、不幸な人を自分の事のように思ってしまう。言い過ぎれば、全ての人に幸せであってほしいと思う。幸せな人を見ると嬉しい、悪い人や嫌な人の幸せは別だと思うが。自分のこういう正直な気持ちを書いているときが一番幸せだ。こんなことは普段言えないし、書けない。馬鹿だと思われるのは当然だが、人の信用を失いそうだ。でも若い頃から、こんな事をじっくり話すと皆、目に涙が滲む。言いたい事を言っただけなのに。

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