癌ステージⅣを5年生きて 55

散骨の風ディレクター KYOKO

通院と仕事

病院を退院すると3つの科の外来に通わねばならない。私の家は横須賀インターの側なので、高速に乗って空いていれば早い。夫は運転が好きで、走る事を苦にしない。昔からいつでもどこでも車で送ってくれ、待っていてくれる。30歳になった頃は、池袋のサンシャインビルでジャズダンスを習っていた。その頃は立川のアメリカ村から、毎週土曜に送って貰い、終わるまで待って居てもらった。お互いに「お抱え運転手」「お抱えお女中」というのがうちの夫婦関係だ。東大病院にも大腸外科、肝胆膵外科、消化器内科と別々の曜日に受診するので、週1回は行っていた。横須賀に住んではいても横須賀の事も横浜の事もよく知らない。やはり東京で行動するのが、普通なのだ。仕事でも関東一帯を走り回る。前はどこへ行くのも用が無くても必ず2人で行った。私も助手席に乗っているのが好きだ。2人とも病院のスケジュールがあるので、それに合わせて仕事をするのは大変だった。

東日本の震災被害者

2度目の肝臓手術が終わった頃、東日本の津波に遭われた方の散骨の依頼があった。旦那様と旦那様のご家族のお2人を失い、その方々の散骨である。津波に遭われた方は、海を敬遠なさると思い、実際そういう方が多いと思うのだが、海に恨みを抱かず、本来の素敵な海、地球の大自然と捉えて散骨して頂ければ嬉しい。私の友達のご両親も名取の海に呑まれてしまった。彼女が電話で無事を確かめた直後だったという。散骨を希望なさったKさんの散骨は、不運だった。何度も何度も荒天で延期になり、それでも彼女はあきらめず、散骨まで1年も掛かってしまった。万物は海に生まれ、海に還る。彼女は納得し、今は再婚して東京で幸せに暮らしている。

パラリンピックの選手

同じ頃、葉山でも散骨があった。車椅子の方がいるので、あらかじめ「車椅子でも船は大丈夫ですか、障害者用トイレはありますか」と聞かれていた。私たちはそのつもりで、マリーナのスタッフにも宜しく頼んでおいた。人数の多いグループで来られたが、意外にも車椅子の方は1人で車を運転して来られた。

私たちがそれらしいと認め、皆で駆け寄って補助しようとすると、運転席からくるっとこちらに向き直り、笑顔で「1人で大丈夫です」と言った。その凛とした感じに皆手を出せないでいたが、いかにも慣れている様子で、彼女は車椅子に座った。その後も心配して、遠巻きに見守っていたが、彼女は車椅子を上手に扱い、船に乗る時だけ手を貸したが、ハンデキャップを感じさせない素敵な人でとても綺麗な人だった。

後日、新聞に出ている彼女を見て驚いた。東京パラリンピンクの射撃の選手として、取り上げられていたのだ。それからはテレビなどでもよく見かけるようになった。パラリンピック選手の代表に選ばれて、インタービューなどの席に出、今回は森氏の女性発言で話題になった委員会のメンバーにも選ばれている。知的でチャーミングな田口選手、コロナに負けず是非頑張って欲しい。

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