癌ステージⅣを5年生きて 68

散骨の風ディレクター KYOKO

ヨット初体験

私たちは、友だちがヨットの手作りキットを買い、庭で組み立てているのを見た。せいぜい2m位の長さの簡単な船だ。私はそれを見て思った。夢なんて言っていたら一生買えない。小さいところから、とにかく始めるのだ。ヨット雑誌の広告に中古のディンギー(小型ヨット)が20万円で出ていた。早速、10回ローンにしてもらい買った。ドイツ国旗と同じ色のセールだ。私たちは、乗り方も動かし方も知らなかったので、最初は、そのヨット屋さんのオーナーに江ノ島で一から教わった。彼も独立して会社を作ったばかりで、とても誠実な人だった。その次からは、友だちの友達がヨットをやっていることを知り、毎週土曜、マツダファミリアにヨットを積んで逗子の新宿湾に行き、日曜の朝から教えて貰った。土曜の夜は車に泊まり、朝はデニーズに行ってトイレを借り、顔を洗い、朝食を食べた。ウエットスーツも作った。ディンギーはよく横倒しになるのだ。普通は、みな大学のヨット部などで習うのに、30歳から始める私たちは異例だった。欲張りな私たちは、釣りもしたいと釣り竿やクーラーなどを積んでいたので、横倒しになるとみんな海に散らばり、拾い集めるのが大変で恥ずかしかった。

夢のクルーザー

秋も終わる頃、ローンの支払いを終え、私たちはその船を友達に売った。そしてそれを頭金にして、中古の21フィートのヤマハのクルーザーを買った。屋根が有り、ソファーが有り、キッチンにトイレ付。キャビン内は真直ぐ立って歩けなかったが、大進歩だった。ディンギーの仲間たちは、「凄い」と言って羨ましがられた。足を延ばして寝られ、遠くまで行けるのだ。堀江謙一が太平洋を渡った船より大きい。ヨットは置き場所もお金が掛かる。私たちは近くで安い所を探し、木更津のヨットハーバーに置いた。桟橋は無く杭に舫もやい、そこまではボートで行く。

ヨット初心者の私たちは、2人だけで乗っていたが臆病で、東京湾の中ほどにある人工島第2海堡を越えたら、魔物が居るんではないかと、中々越える事が出来なかった。しかし、1度越えてしまえば怖いものは無い。夫は最初から私をあてにしていなかったし、私も操船に積極的ではなく、ワッチ(見張り)と離岸着岸以外はほとんど何もしなかった。未だに何も出来ない。ただ、乗っているのが好きなのだ。映画の様に遭難したら、私は何も出来ず漂流するだけだろう。でも、私は船酔いしない。普通の奥さんは、船酔いに凝りて来なくなる。ヨット犠牲者と言っていた人もいる。もし、船に女の人がいれば、たいていは愛人で、長距離を一緒に行く人は奥さんだ。

小笠原まで行けるヨット

私は、常に外国に行きたかった。ドルもどんどん安くなり、海外旅行も一般的になっていた。しかし、夫は頑なにヨットでなければ行かないと言い続けた。友だちが小笠原に居るので、そこにも行きたかったが、ヨットで行くと言い張った。私の顔を見ては「ヨット買って」と言い続けた。1日中言うので、その数は数え切れなかった。そして今度もローンを払い終わり、それを売って頭金にし、3艇目の中古船26フィートを買った。「オンディーヌⅢ」だ。今度のヨットは背が立つ。真直ぐ歩ける。トイレも別室になっている。2人で乗るには丁度良い大きさでその空間は別世界、正にユートピアだった。しかし、太平洋の波は大きく船の長さが足りないからと、後ろにプレイニングボードを付けた。そして念願の小笠原父島まで行くことが出来た。しかし、その大きさで行くのは無謀だと言われた。最低30フィートは無いと危ないと。小笠原までのクルージングは昼夜走っても5日位掛かる。トラブルは船ではなく、風でも波でもなく仲間割れだった。最初の時は、私の仕事が忙しくて行けず、ヨット友だちと二人で行った。夫はかなりの我儘で、私以外の人と2人で居るのはとても難しい。悉ことごとく彼と合わず、小笠原では彼に降りてもらう事になった。代わりに私が小笠原丸に乗って、2日で島に着いた。私は彼に詫びを言い、帰りの船代を出して別れた。

小笠原から東京湾

私たちは、島に住む夫の山の先輩で、恩人でもあるNさん夫妻と遊び、3日後猫たちの待つ東京に帰った。小笠原は言うまでも無く東京都だ。住んでいる人も東京などからの移住者が多い。だから沖縄のような土着的な所はない。ただ南の島の自然と美しいサンゴ礁の海の魅力がいっぱいだ。それぞれの良さがあるが、私は小笠原が気に入った。週1回の客船で、食料やいろいろな荷物が届き、纏まって届く新聞を古新聞と言ってみんな笑う。飛行機が来ないので実に長閑だ。時間が止まっているようだ。ウミガメも悠々と港の中まで泳いで来る。帰路、小笠原列島を眺め、スミス島、ベヨネーズ列岩など無人島を遠目に楽しみ、八丈島に寄った。途中、大きな漁船と遭遇。その船は、私たちに興味を持ち、近づいて来た。急接近されたが、私たちはセールを上げて走っていて避けようが無く、双方側面が少しだけ接触した。しかし、ダメージが無いのが分かると、その船は行ってしまった。船が何ともない事を八丈島で確かめ、再び5月の海に出た。濃紺の海は穏やかで、風も良好、イルカと抜きつ抜かれつ走り、水平線の夕日に魅せられ、満天の星と語らう。大海原にいる至上の幸せ、これほどの贅沢はない。残念だったのは、東京に近づくにつれ、船が増え、海の色が汚くゴミが増える事だ。

前の記事次に続く