癌ステージⅣを5年生きて 67

散骨の風ディレクター KYOKO

ヨットの漂流

今日、ヨットが転覆して漂流する映画をテレビで観た。実話である。男女のカップルが乗り、タヒチからサンディエゴに行く途中、ハリケーンで遭難してしまう。キャプテンの男性は怪我をして動けず、クルーの女性が太陽の高度を読んで位置を出し、何とか船にセールを付け、41日掛けてハワイに着くという物語だ。30日目位に男性は怪我が悪化して死んでしまう。

ベーリング海に

私たちは、ヨットに気象ファックスを付け、天気図を取りながら、なるべく危険を回避し、台風がまだ来なかった6月を選びアラスカに向かった。ベーリング海は荒れると言う事で恐れられていたが、夏の間はそんな事はない。それに北へ行くほどアメリカ大陸への距離は短く、アリューシャン列島という島が連なっている。

先日、ニュースキャスターの辛坊さんが、無事太平洋を1人で渡りサンディエゴに60日位で着いた。それは本当に喜ばしいが、私には太平洋を真直ぐ横に行く人の気持ちが分からない。南太平洋で遊びたいのなら分かるが、海の上だけに2カ月いるのだ。まして単独無寄港世界一周などというのは、正に記録や忍耐だけの冒険だ。夫もクライマーだったから、危険と隣り合わせのアドレナリンが出る快感は分かると思うが、私には分からない。

山から海へ

夫はロッククライミングに夢中で、それは趣味の域を越え、生きる事そのものだった。バイト先で少年週刊誌を運んでいても、トレーニングだと普通の人よりも沢山運んだ。給料は全部山につぎ込み、江戸城外堀の石垣を見つけては登っていた。それが、尊敬する先輩や多くの友達を山の遭難で亡くし、結婚もして変わった。前にも書いたが、ほかの友達もヨットに変える人が増えた。みな結婚して少しずつ安全志向になったのは確かだと思う。その頃ヨットは世界一安全な乗り物だと言われていた。ダルマさんの様な構造で、ひっくり返っても起き上がるからだ。

しかし彼の場合は少し違っていた。子供の頃にボーイスカウトにいて、アウトドア志向はあったのだが、その頃にヨットの雑誌などを買い、その憧れも密かにあったらしい。しかし、日本では山は身近でも、ヨットは別世界の物というイメージがあった。それが、新婚時代に行ったアラスカ旅行で、ヨットを身近に見て変わって行ったらしい。

Time is money

私は、20代の早い時期に1度は海外に行き、外から日本を見たいと思っていた。その頃ドルは310円位で、お給料は4万円台、外国に行くなどとても贅沢だった。でも、その頃のヨーロッパ便はほとんどが北極回りで、アンカレッジを経由していた。だからアンカレッジまでの飛行機代が一番安く、往復20万円位だった。言うまでも無く貧乏暮らしの私たちにはそれさえ無理というものだ。私は貯金が出来ない。しかし借金は返せる。昼夜働いても返す。責任感は人一倍強く、それが取り柄だった。それに貯金をするという事は年を取ると言う事だ。住宅ローンや車のローンは、そういう事だと思う。貯金をして家を買えば、60歳に成ってしまう事もある。私にとって「Time is money」は若さ、年齢は買えないと言う事だ。そのためには借り、必ず返すがモットーだ。

アラスカ貧乏旅行

私たちは、飛行機代をローンで払い、旅費は私のささやかな退職金と私の着物を質屋に入れて作った。夫の山のパートナーSも誘い、一緒にアラスカに行った。山好きにとっては、マッキンレーも憧れの山の一つだ。

初めての外国旅行は、聞く物見る物、日本では味わえない感動の連続だった。1ドル300円では、せいぜいハンバーガー位しか食べられなかった。本当はステーキが食べたかったが、とんでも無い。私たちはレンタカーを借り、ジャガイモと玉ねぎを1袋ずつ買い、ベーコンの塊を買った。ほとんど車の走っていない広い真直ぐな道路を走れるだけ走り、夕方にはテントを張って食事を作り、昔のロードムービーの様に旅をした。夏のアラスカは最高だ。雄大な高い山々、近くで見るマッキンレーの美しい事、果てしなく続く森、大きな魚が居そうな清流、野生の動物や鳥たち、一面ルピナスが咲く草原、湖水のほとりで給油をし、水面を走る水上飛行機も初めて見た。観光船に乗り、氷河も見に行った。拙くても学校で習った英語を使って、通じると楽しかった。広い私有地に間違って入ってしまった時は、銃で撃たれるかと思ったが、何とかなった。狼の声に慌ててテントから出て、車に逃げ込んだが、狼には遭わなかった。中規模の南部アラスカ湾の町スワードの、ヨットハーバーの桟橋で見たヨット、そこに無限大の可能性と自由を見出し、それから夫のヨット狂いが始まった。

土壇場のトラブル

1週間ばかりの短い旅は瞬く間に終わり、レンタカーを返す時が来た。車を返して驚いた、走行距離加算料金が掛かる事を知らず、お金が足りなかった。飛行機の出発までに時間はそれほどない。夫は素早く考え、お気に入りのニコンを売ることにした。カメラ店に行くと、困っている日本人を見て、店主が直接買う人を紹介してくれた。夫はブラックボディの色が剥げたところを黒のマジックインクでごまかした。その頃、ニコンは人気で高く売れたのだ。カメラ店の店主の手は、マジックで黒くなり、駆け付けて来た現地の報道カメラマンの手も黒くなった。2人とも茶目っ気いっぱいの笑みを見せ、責めはしなかった。私たちは擦れ擦れ切り抜け、無事帰路に着いた。若さと言うものに怖いものはない。あの旅の素晴らしさは、本当に人生を変えた。日本を出て学ぶ事は多い。若い時の旅こそ、その後の人生を決定するかも知れない。

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