癌ステージⅣを5年生きて 66

散骨の風ディレクター KYOKO

冬山の生活

凝りもせず、前回の続きを少し書く。

私たちは八方尾根で知り合った訳だが、2人とも5月の連休までアルバイトをしていた。夫はその後、短期のバイトをして、7月後半から、北アルプスに入り夏の終わりまで涸沢でテント生活をする予定だった。私は何の予定も無かったが、家からは早く帰ってまともに就職しなさいと、母からの手紙が始終来た。

山の生活は自由で楽だ。3食と温かい寝床付き、日給900円だった。彼はパトロールなので1000円貰っていた。仕事のほかは、リフト乗り放題、何をしても自由だった。私たちは毎晩パトロール室で会っていた。その頃は、2人ともフランス語を習っていたので「ボンジュール」「ジュテーム」など知っている単語を並べて、将来の夢を語り合っていた。彼はフランスの山グランドジョラス北壁を登攀するために言葉を習い、私は大胆にも「コメディフランセーズ」を目指していた。ラシーヌなどの古典劇やジロドゥなどの現代劇をフランス語でやりたかった。今思えばとんでも無い話だが。

越後つついし親(おや)不知(しらず)

私たちは、彼の誕生日に旅行に行くことを考えていた。私はまだ長野以外はどこも知らなかったので、能登へ行きたいと思った。とにかく何の計画も無く、山のリュックサックを背負って白馬の駅まで行った。壁の料金表を見て、能登まではとても無理だと思った。それで、糸魚川から親不知まで行って見る事にした。私は地理が好きで、フォッサマグナで有名な糸魚川にも興味を持っていた。日本海も楽しみだ。その時に水上勉の小説「越後つついし親不知」を思い出し、それが土地の名前だと言う事を知り、どんな所か行って見たくなった。文庫本も買って読みながら行った。

まだ春浅い日本海、4月5日のことだ。糸魚川は車窓から景色を見るだけにして、「親(おや)不知(しらず)」、小さな駅で下車をした。人はあまり居ない。寂れた小さな町である。私たちはその日泊まる所を探し歩いた。もう、夕方に近くなっていて、一番目立った建物「ホテル親不知」に何とか泊まった。お金が無いので、次の日はもっと安い所を見つけなければと思った。

憧れの日本海

次の日チェックアウトをし、親不知を散策した。憧れの日本海、その頃は、北陸道など道は整備されていず、崖崩れなどでよく道も封鎖されたようだ。昔の旅人の通った道は海岸沿いで、特にこの辺りが難所だったらしく、「親不知 子はこの浦の波枕 越路の磯の泡と消えゆく」と読まれた石碑が有り、とても胸が痛んだ。何となく「安寿と厨子王」を思い出したりしたのだが、今となっては、北朝鮮に拉致されていてもおかしくないような場所にいたのだ。田舎町を訳も分からず、この辺が本に出てくる場所かなどと歩き回り、歩き疲れて、ヒッチハイクをしたが誰も止まってくれなかった。そしてその日、彼の誕生日、親不知駅の側にある小さな古い旅館に泊まった。波の音が聞こえた。

白馬の旅館

次の日、私たちは白馬に戻った。休みは残っていたが、お金は残っていなかった。それでも真直ぐ職場に帰りたくなくて、ずうずうしくもバイト先のマネージャーがやっている旅館に行った。長野は西沢さん、丸山さんという名前が多い。それで丸山旅館を探したのだ。ちょうどマネージャーがいて、「君たちか」と言って嫌な顔をせずに泊めてくれた。とても優しい良い人なのだ。ちゃんと部屋は2つ用意してくれた。私たちは若さゆえ、何も知らず、ちゃんとお礼もせず、当然のように無賃宿泊してしまった。何と恥ずかしい事だろう。若い時は、常識に欠け恥ずかしい事ばかりしていた。おまけに親に内緒で行った所が親不知、偶然だったが出来過ぎだ。

新婚旅行

その極みは、新婚旅行だ。夫の義理の兄から、新車のギャランGTOを借り、長野から、大阪まで友達の家を泊まり歩いた。1泊目の長野では本当に地方特有の人の良いご家族で、取り立ての野菜の天ぷらが美味しくて、夫が「美味しい美味しい」と平らげるので、お母さんがスコップを持って畑にネギを掘りに行ってくれた。2泊目は思い出の親不知の旅館に泊まった。3泊目は京都郊外のモーテル。そして4日目、大阪の友達の家に押し掛けた。彼は勉強部屋を開け渡してくれ、次の日彼女も連れて奈良を案内してくれた。最後の夜は清水の駅前で車に泊まった。随分迷惑を掛けたと思う、本当にスミマセン。

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