癌ステージⅣを5年生きて 70

散骨の風ディレクター KYOKO

世界を廻る準備

世界を廻るに当たって、私はスペイン語を習いに行き、夫は沢山の英語のガイドブックを買い、一生懸命勉強した。好きな事の勉強は楽しいものだ。世界を海から廻るには、英語の次がスペイン語だ。メキシコから南は、ブラジルとベリーズ以外、そしてカリブ海もスペイン語だ。季節と風や海流、位置の出し方も大事だ。当時はもう天測はしなかったが、小型船舶1級の試験には入っていた。太陽の高度を六分儀で測り、三角関数で出すのだ。実際には使わなくても、GPSの精度が今ほど良くはなく、機械の性能も全然違う。まだPCも一般的ではなく、もちろん紙の海図を使う。今も家に保存してあるが、何百枚の海図を買っただろう。1枚2500円としても凄い金額だ。たくさんの場所に寄れば、寄るほどその湾、その港の拡大図がいる。陸に近づけば、岩礁が増え、海の地形、深度が重要だ。笑い話だが、無寄港世界一周なら、地球儀1つで回れる。そしてビザもパスポートも要らない。7つの海を越えるわけでもない。でも、南極と南極までの地図は最低いるだろうな。

香港・ロンドン・パリ・ロサンゼルス

私たちは、日本では手に入らない海図を香港とロンドンに買いに行った。パリのボートショーにも必要なパーツを買いに行った。パリで買ったパーツは面白い。フランス人のアランが自分の船に付けていたのだが、リビングの上の透明ハッチ(窓)を半円形の透明なお椀の様にして、外が360度見えるようにしたのだ。雨や荒れている時に、外に行かずに中から外を見渡せる。グッドアイデアである。それなのにそんなものは日本にない。日本はヨット後進国だ。買い物も、かなりの円高で助かった。カタログを見て、LAのヨットショップにも行った。世界一と言われるヨットハーバー、マリナデルレイも見て来た。このハーバーにうちのヨットを着けるのだ、迷子にならないか。すべてに興奮する。

追加の設備

私たちの物になった「オンディーヌⅣ」は、油壷の修理工場に預けてあった。すでに世界一周仕様だが、夫には直したい所や付けたい物が山の様にあった。レーダーや魚群探知機、オートパイロット、大型発電機、造水機、出入り口のテントや、外デッキ用テント、1部屋を倉庫にして、電動トイレも付けた。海水で流すのだが、港で流さないためのホールディングタンクを付けた。シャワーがある手動トイレはそのままだ。後部デッキの操船デッキの上にパイプで櫓を組み、小型太陽発電機と一段高いパーソナルチェアも付けた。すべての予備のパーツも保存し、修理の仕方もプロの仕事を見て学んだ。冷凍庫も付けた。新しいセールも作った。もう、丸ごと家を移したも同然になった。海水を真水に出来る機会をつけたので、水の補給が無いのは大進歩だ。洗濯機とテレビが無いのを除けば。ヨットの修理や補修の費用は見積書がない。やってみないと分からないと言うのである。それにそこは、今まで日本から外国へ行ったヨットの艤装をほとんどやっていて有名で、腕は一流、値段も一流だ。辛坊さんが最初に日本を出た時に、彼もここでお世話になっていた。何も言って来ない支払いが不気味で恐ろしかった。元々値段を見ないで物を買う夫である。お財布はいつも私が持っていた。

金払え

半年以上工事に掛かったと思う。夫はほとんどそちらに行っていて、船に泊まることもあった。ほとんど完成した翌年1月、突然夫に電話が掛かって来た。工場の社長の奥さんからである。いきなり「すぐにお金、払って」と言うのだ。何の事か分からない。まだ請求書も来ていないのに。しかし、やはり「すぐ、払え」と言う。漁師の娘さんだったと言う奥さんはちょっと怖かった。金額を聞いて驚いた。2千万円である。私は「えー」と言ったが、夫は「それ位掛かるんじゃない」と言うのだ。どうすればいいと言いうのだ。幸いその月の売り上げが丁度それ位あった。それでとりあえず払ったが、みんなのお給料や経費はどうしようと思った。仕方なく、当面は銀行に借りた。次の月も同じぐらいの売り上げはある。その頃、うちの会社は大手の下請けをやっていて、忙しくはあったが、かなり売り上げていた。

試験クルージング

船が完成すると、言う事が無いほど完璧で素晴らしくなった。あとは、鹿児島の友達に船体の色を紺色にしてもらうだけだった。私たちは、仕事をスタッフに任せ、油壷から鹿児島に向かった。勿論、沿岸を行き、毎晩港に着ける。風が強い時は、何日も港から出ないこともある。朝は早く出て、3時位までには港に入る。そして銭湯を探し、お風呂に入り、コインランドリーで洗濯をする。軽油の補給や食料も買い、美味しそうな地元のお店を探し食事をする。地元の人は、みんな親切だ。クルージングの最大の見せ場は着岸である。車の車庫入れと違い、風があるから大変だ。私は船の舳先でロープを持ち、岸壁までの距離を船長に伝える。5m、3m、1mと言って、船がぶつかる前に私は飛び降り、ロープで船を調節し、港の舫い杭などにロープを縛る。岸壁の高さは潮の満ち干によっていつも違う。船より高すぎても低すぎても私は降りられない。そんな時は、近くにいる人にお願いする。ヨットマンなら、みな進んで駆け付けてくれる。

黒潮の速さ

串本は本州最南端だ。黒潮が側を北西に走っている。私たちは、沿岸を走り、なるべく黒潮に当たらないように太平洋を走っていたが、高知沖ですっかり黒潮にハマってしまった。4~5ノットの物凄い速度で船を押している。エンジンを掛けてもスピードは1ノット位しか出ない。あきらめて瀬戸内海を通ることにした。今度は鳴門の渦潮である。ここは潮見表があれば大丈夫。潮止まりを待ち、鳴門大橋の下を抜ける。瀬戸内海は眺めも良く、海も穏やかで嬉しい。憧れの牛窓や尾道に泊まりながらの楽しい旅になる。今治の岸壁は、大型船ばかりだったが、停泊料を何㎝いくらで払うので、私たちの船など100円にもならなかった。

エンジントラブル

私たちは豊後水道を走り、東シナ海に出て、最終的には沖縄まで行こうとしていた。それが屋久島の近くでエンジンが故障してしまった。夫は「ガーン」と言った感じだった。セールボートであるから、本来エンジンは無くても走る。ヨットを買う前に、夫は、「ヨットは風で走るからお金はかからない、タダだぞ。」見たいなことを言っていた。しかしそのためのセールには、大変なお金がかかり、それも破れたり、痛んだりする。今の様にエコブームではなかったからエコとは言わなかった。そして港の出入港にはエンジンが必要なのだ。私たちはどうにか風を使って、屋久島まで行くことが出来た。しかし、エンジンを直すには鹿児島まで行かなければならない。鹿児島にはヨットの友達がいる。早速電話をして錦江湾の入口枕崎まで迎えに来てくれることになった。翌朝早く島を出たが、風が無い。船は全然走らない。仕方なく積んでいたゴムボートを下ろし、それのエンジンを駆け、ヨットを引っ張ることにした。ボートは小さく、船は大きい。船の行き足(スピード)がつくとボートを追い越してしまう。ボートには夫が乗り、ヨットの梶は私が握っていた。そんな風な苦労の末、鹿児島に着いたのは、もう夜明けも近い頃だった。友人たちは、徹夜で待機していてくれた。有難く、又、申し訳ない。

結局エンジンは新しくしなければならず、入れ替えるのに何だかんだ半年も掛かってしまった。その間、夫はずっと鹿児島平川港のビジネスホテルに泊まっていた。

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