癌ステージⅣを5年生きて 71

散骨の風ディレクター KYOKO

鹿児島での体験

船のエンジンは新品になり、船体も紺色に塗られ、鹿児島を出る時が来た。夫は半年も居たから、もう土地での馴染みの人も多い。天文館や温泉、流しそうめん等いろいろな所に連れて行って貰ったらしい。私も一度陣中見舞いに鹿児島に来た。天文館でイタリアンに行き、珈琲専門店で美味しいコーヒーを飲み、夜になると居酒屋の後、ご当地ラーメンをいろいろな店で食べた。カウンターの前にある大きなお釜で麺を茹でているお店では、びっくりし、ちょっと怖かった。鹿児島ではきびなごと天ぷら(薩摩揚げ)をよく食べたが、やはりお醤油は甘かった。砂風呂で有名な指宿では、思い切ってチャレンジし、奮発して高級旅館に泊まった。白水館だと思ったが、館内の雰囲気が良く、お部屋の設(しつら)え、広い温泉、お料理、ホスピタリティ、何もかも最高だった。

もう一つお気に入りのホテルが西鹿児島にある。ガストフという小さなホテルだ。ヨーロッパのプチホテルのようで、何もかもがアンチック、大正ロマンを感じさせる。オーナーが収集した沢山のアンチックの家具やガラス製品が展示してある素敵な部屋もある。もう一度泊まってみたいと思っていたが、機会は無さそうだ。

大送別会

私たちの出港前夜、平川の馴染みになった漁師さんや近所の人が送別会を開いてくれた。朝、裏山のタケノコを掘り、生け簀の鯛を網ですくい、飼って居たニワトリのピーコちゃんを絞め、芋焼酎の1升瓶を並べ、山の様なご馳走が出た。飲めや歌えのどんちゃん騒ぎになったが、鹿児島弁は難しい。お年寄りが多いから、話をするのも大変だった。カラオケも得意ではなく、芸も無い。最後は地元の人たちで盛り上がっているので、私たちは準備も有り、お礼を言って先に失礼した。

猫のボロ

次の朝、起きてびっくりした。船を着けている岸壁に小さな子猫がいるのだ。白地に茶や黒やこげ茶などが混ざったブチでとにかくとても可愛い。まだ生後1か月位だ。「みゃあ、みゃあ」泣いている。お腹が空いているのか、急いでお皿にミルクを入れて上げた。周りには誰も居ない。抱っこすると痩せていたが、毛がふわふわしていて尻尾が長い。もう、出港するのにどうしよう。見送りに来た人は、知らん顔。「連れて行けば」と言われて困ったが、見捨てるわけにはいかない。とりあえず小笠原まで連れて行く事にした。小笠原で飼い主を見つけよう。ずっと連れて行きたいのは山々だが、狭いヨットに乗せるのは、可哀そうな気がしていた。だから一緒に行く予定だったパコが死んでから、猫は連れて行かないつもりでいた。

この子猫は、ボロ雑巾のような柄なので、ボロと名付けた。雌だった。人懐っこく、船にもすぐ慣れ、お行儀も良かった。幸い好天が続き、彼女は船酔いせず無邪気に私たちと楽しく過ごした。海が静かな時には、ブーム(横帆下駄)の上に乗せると大人しく座っていた。

父島に着き、友だちを通じて獣医さんを紹介してもらった。すると貰い手をすぐに探してくれ、それは、島の女子高校生だった。彼女は友だちも連れて来て、ボロを一目で気に入った。これで安心して旅立てる。その後の子猫の様子を、時々友達が教えてくれた。幸せに長生きしたらしい。

太平洋の稀少な岩

父島を出てから私たちは、釧路へ行く前に寄り道をした。どうしても見たかった孀婦(そうふ)岩、太平洋にポツンと立っている孤高の岩。女の人が泣いているようにも見える不思議な岩。100m位の岩が海から生えたかのように存在している。何かぞっとするような淋しさ、絶海の孤独、それは見る物を圧倒する。何か本当にこの世の果てのよう。神秘的と言うか恐ろしいような感動だ。

6月の海

私は去りがたい思いを抱きながら、北の進路へ向かった。航海は順調に行っている。さすが6月の海、霧は出るが静かだ。こんな時は、レーダーが本領を発揮する。近くに船がいると教えてくれるのだ。酷い霧になると2m先も見えない。雲の中の様だ。魔法の国に通じて居そうで、私は嫌いじゃない。昔の戦争では、よく霧を利用して逃げたりしたと言う。

噴火湾沖で一艘の漁船に出会った。2人で旅をしているらしいと知ると「時鮭をやる」と言って、こっちに放ってくれた。しかし届かず海に落ちてしまった。勿体ないと思っていると、少し近づきもう1度投げてくれた。今度は無事にキャッチ。旅の情け、親切が嬉しい。稀少な鮭だ。夫は大好物に喜び勇んだ。本当に有難うございます。

とにかく釧路まで無事着いた。市場の前の岸壁に付けると母親と2匹の子犬がうろうろしていた。普通の雑種だが、子犬がとても可愛くて離れ固かった。私たちは最後だから、旅館に2泊して畳の上で寝た。そこで、頂いた時鮭を料理してもらい、お礼に半身を旅館で食べて貰った。ヨットに戻ると釧路ヨットクラブのSさんがヨットを見つけ、私たちの方へやって来た。彼は地元で事業をしていて、いろいろ親切に世話をしてくれ。そして夜には、釧路の美味しい炉端焼きを、豪勢にご馳走してくれた。

出発の日、北海道新聞やNHKなどいろいろな取材の人達が来た。お昼のテレビのニュースにも流れたらしい。海上保安庁の宗谷からは、「安航を祈る」の信号旗が翻っていた。

さて、これで本当に日本を後にする。

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