癌ステージⅣを5年生きて 97

散骨の風ディレクター KYOKO

喜べない誕生日

思いがけず1つ年を取った。絶対に無いと思っていたのに。私の人生に71歳がある。私は友だちの誕生日を全部覚えているから、友だちの誕生日に、「おめでとう」とメールするが、最近は迷う。みんな嬉しくないと言う。もう、おじいさん、おばあさん以外の何者でも無い。電車にはあまり乗らないから、まだ席を譲られた事はない。でも、シルバーシートには堂々と座る。バスなどでは、まだ席を譲る方だ。でも、可笑しな事があった、20年位前、電車で席を譲られた事がある。それも50歳以上のおじさんからだ。私がおばあさんに見えたとは思わない。疲れて見えたとも病人だとも妊娠中だとも見えなかったと思う。でも、折角の好意だから、お礼を言って座わらせて貰った。私に好意が有ったのかしら。でも無いか。

素晴らしき長寿

もう35年以上前の話だが、伊豆大川に金助さんと言う漁師のおじいさんがいた。私たちが真新しい漁船を見ていると、「俺の船だ、触るな」と言う人がいた。私たちは、ヨットに乗り始めた頃で、いろいろな港を見て回っていた。夫は日に焼けて真っ黒だし、何処に行っても漁師の人たちと気が合う。ヨットマンと言うより、仲間だと思われるらしい。港で銭湯に行くと「お前は、鮪か鰹か」と聞かれたと言う。漁師に間違えられるのだ。大川でも金助さんに気に入られ、「夜、遊びに来い」と言われた。私たちは、民宿で食事を済ませ、金助さんの家に行った。お酒を飲みながら、彼の独壇場で、いろいろな話を聞かせてくれた。80歳で新しく漁船を作ったけど、港まで歩いて行くのは大変だから、無免許で50㏄のバイクに乗っている。注意しても無駄なので、管轄のお巡りさんも目を瞑(つむ)っている。家も60歳を過ぎてから建てたと言う。そして、若い頃、房総の方に漁に行き、鰯が大漁で儲かって、お豆腐の様なお札を風呂敷包み2つに持って、電車に乗った。すると「いい女がいてさぁ、全部やっちまった」とか。びっくりしたのは、定置網の中から出て来たクジラの口から、光った電車が出て来たと思ったら、夜光虫がいっぱい付いた人が吐き出されたのだったとか。夜遅くまで、海の話などを聞いて帰った。下田の神子元の沖には気を付けろと何度も言われた。船の難所だからだ。東伊豆の漁場は「俺と女房で開拓した。だから漁協の指示には従わないんだ」とも。小柄だが豪快でユニーク、そして元気な忘れられないおじいさんだ。

葉山の宝、93歳現役女将

葉山に「鰹」と言う、隠れ家的料理屋がある。住宅地の中で、自宅を改造して、孫と息子と娘と一緒に店をやっている。一流の人が来る店でもある。手打ちの蕎麦が美味しく、自ら仕入れる地魚のお寿司が美味しい。女将はつね子さんと言い93歳の現役だ。私たちはつね子さんに会いたくてお店へ行く。ほとんどのお客様は、彼女のファンだ。元は海の側で魚屋と料理屋をやっていて有名だった。彼女は葉山の裕福な家に出入りをし、可愛いがられたという。裏表が無く、素朴で、飾りっ気がないしゃべり方が格好いい。東京の下町のような話し方だ。「嫌だよー、もう耳が遠くなっちゃって」と言いながら、小柄な体を綺麗に身づくろいして客席に出てくる。いつも若い頃の事、戦争中の話などを良くしてくれる。旦那も97歳で、メニューを書いたり、仕入れに行ったりしている。夫婦で190歳凄い事だ。9月の誕生日には、玄関に沢山のお祝いの花が並ぶ。

未来は明るいか

私は93歳まで働けるか。生きていれば働かざるを得ない。死ぬまで働く宿命である。

先の事は分からない。この連載ももうすぐ100回になる。続けるか、どうかのターニングポイントだ。もうマンネリになっているだろうし、意味があるのか。自己満足の道に終わりはない。しばらく休み、新しいシリーズにしようかとも思っている。

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