風の中の私 13

──やっぱり懲りない書く事は──

プロレス巡業の夏休み

新婚時代を過ごした西落合のアパートの側に、安くて美味しい洋食屋さんが有りました。なぜか「香港」という名前です。狭くて汚くて、労働者階級のたまり場のような感じです。女の人1人ではとても入れなかったでしょう。私も今だったら夫と一緒でも考えてしまいます。夫は素直で、美味しい感動を直ぐに表すので、どこの食べ物屋さんでも覚えられ、可愛がられます。そこのカレーが美味しくて、いろいろな洋食弁当が有るのですが、ご飯にカレーを掛けて貰う人が多かったです。夫も一時タクシーに乗っていた事が有りましたが、そこは小上がりもあって、タクシーの運転手さんの休憩所みたいにもなっていました。
そこのオーナー兼コックのTさんとは懇意になり、夫が旭川出身だと知ると、新日本プロレスの興行を一緒にやらないかと誘われました。いくら出資するのかは分かりませんが、夫は話に乗り、親友のSも誘い旭川に行く事になりました。私も一緒に行きたいので、母が病気だと言う事にして会社を辞めました。

旭川には、伊の沢のスキー場に恩師と夫たちで作った山小屋が有ります。トイレが旧式なのを除けば、2階建てのとても素朴で素敵な小屋です。夫は高校時代、家に帰らずそこに住み着き、そこから学校に通っていたのです。そのころはとてもやんちゃで、問題もいろいろ起こしたようです。最近は、旭川には帰れないなどと言いますが、当時は、多少のやんちゃは勲章だったのでしょう、自慢話を良くしたものです。

北海道の夏は、正に最高でした。夫は、「香港」の軽ワゴン車で走り回って、いろいろな商店にポスターを貼って、チケットを置いて貰っていました。街の有力者や政治家の所にも挨拶に行ったようです。私は、別荘でのリゾート気分で、本を読み、のんびりしていました。でも、私にも手伝いがあったのです。軽ワゴンを宣伝カーにし、スピーカーで鶯嬢をすることになりました。軍艦マーチを鳴らし、「アントニオ猪木の新日本プロレス、〇月〇日〇時より、旭川市体育館にて、真の真のプロレスをお楽しみください。」旭川の市街はもとより、隣村やトウモロコシ畑、麦畑など、果て無く広い北海道の道を長閑に楽しく、気楽にドライブ気分で走りました。恩師の息子リュウちゃんも時々遊びに来て慕ってくれ、弟の様でした。暇なときは、山の道具を出して、木登りをしたり、ブランコをしたり、子供みたいにみんなではしゃいで遊んでいました。

神居古潭の近くの温泉へ行った事が有りました。男湯と女湯の暖簾をくぐり、浴室に行くと中は、観葉植物の仕切りだけで一緒になっています。それでも人が少なく、女湯の方は私1人でしたが、突然夫の声がして「おじさん、覗かないで、僕の奥さんが入っているんだから」と言っています。そういえば、おじさんの顔も見えました。北海道は、入口が分かれていても中は混浴と言う所が、当時はまだあったようです。

いよいよ試合の前日、続々とプロレスラーの人たちがやって来ました。その頃、新日本プロレスは、日本プロレスと分かれたばかりで、興行権も安かったようです。と、言っても夫が出せるお金は多寡が知れています。その分、いろいろとお膳立てをさせられたのでしょう。専門的な事は、Tさんが皆根回しをしてくれました。私は力道山が亡くなってから、プロレスを観る事もなく、その世界の事は何も知りませんでした。夫も多分そうだったと思います。山以外の事に興味のない人でしたから。有名な選手も多く居たようですが、私はアントニオ猪木以外知りませんでした。アンドレア・ジャイアンツ、タイガー・ジェット・シンという人がいたのは、何となく覚えています。強面(こわもて)のプロレスラーも裏では皆優しい人達で、特に北澤さんという前座の人は、本当に優しくて、こんな人が戦えるのかと思ったほどです。
試合当日、席はあまり埋まっていませんでした。それでも地元政治家にチケットは安く買いたたかれて、接待に使われていたようでした。私も後ろの方で見ていましたが、結構迫力のあるものです。2日間行われたのですが、状況はあまり変わりません。売り上げや報酬の事は何も分かりませんでしたが、私にはいい夏休みでした。帰る時に伊の沢の庭で、子猫を拾い、取り敢えず、東京まで連れて帰りました。それが私たちと猫との最初の出会いです。アパートでは当然飼えないので、友だちに引き取ってもらいました。彼女はケンさんと言う名前を付けましたが、すぐに居なくなってしまったと言う事です。

夫は、次の奈良での興行にも誘われました。そこではお手伝いと言う事で、興行主の家に泊めて貰い、私は留守番でした。興行主のNさんは、穏やかな良さそうな人と言う事でしたが、後から聞くと、どうもヤクザの親分だったようです。奈良は、私が子供の頃読んで感動した「橋のない川」のように部落問題、いわゆる同和の人が多く、そういう人たちの面倒を見ている様でした。私が慰問に行くとホテルを取ってくれましたが、ラブホテルで、別の時、夫は手下の人から、「兄貴、風呂行きましょう」と言われて付いて行ったら、風俗だったと言ってました。箪笥の中には、日本刀もあって、「いい顔にしてやるから、組に入らないか」と誘われたそうです。当然、入りませんでしたが、少し魅力を感じたのかも知れません。とんでもない事です、そうなれば今頃生きていなかったでしょうね。お土産に頂いた菊屋の「お城の口餅」が美味しくて、今でも機会があれば食べたいと思います。

夫はやんちゃでしたが、1人で行動する人で、本当は、夜の世界も闇の世界も知らず、極めて硬いのです。でも、人からその手の話を聞くのが好きで、自分でも詳しいかのように調子を合わせています。アウトサイダーとして、アウトローが好きなのです。知らない世界は興味が有ります。麻雀もパチンコも賭け事は一切せず、ゲームのトランプさえしません。私は、麻雀やトランプが好きなのですが、結婚してからは縁が有りません。私の家では父が麻雀屋の養子だった事もあり、家族で麻雀や花札をゲームとしてやっていました。北田家は、せいぜい百人一首ぐらいと、教育的でした。ですからラスベガスに寄った時も、カジノは少し覗いただけで、100ドルまでと決めて、スロットマシーンをやっただけです。
それでも夫は宝くじは好きですね。夢は多いのです。先週2万円当たりました。

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