風の中の私 14

──やっぱり懲りない書く事は──

ヘアーモデルのアルバイト

プロレスの北海道巡業に行くために会社を辞めてから、一時ヘアーモデルのアルバイトをしていました。山野愛子系のプロダクションだったと思います。美容師さんの為のヘアースタイルのモデルです。痩せて、背も高い方で、髪の毛が長かったから採用されたのでしょう。最初の仕事は、フランス人の美容師のモデルで、当時サッス―ンと言う一世を風靡した美容師のテクニックを披露するためのデモンストレイションでした。私の髪は、バッサリ切られ、小さなハサミで、細かく細かく短くカットされ、初めてショートカットになりました。やはりハサミの使い方が巧みで、凄いテクニックだと思いましたが、フランス人の彼女にとって、私の髪は、硬くてやりにくかったようです。

私は35歳位まで、化粧をしたことが有りませんでした。仲の良い友だちもそうでした。私たちは、しないでいるのが好きだったのです。若い内は自然な素顔が一番だと思っていました。それにそれが私の個性だとも思っていました。夫も化粧をする女の人が嫌いでした。ですから、そのモデル事務所に行って、初めて化粧道具を買い、テクニックを習いました。演劇部でしたから、ドーランで舞台用メイクはした事がありますが、モデル用の濃い化粧は、自分らしくないと思い、仕事以外はしませんでした。でも、昔から違う人物になるのは好きでしたから、面白くは有りました。ただ、セリフをいうのではなく、ポーズを決めたりと言うのは、気恥ずかしくて、夫以外の人にファインダーから覗かれるのは嫌でした。

私の髪は、染めていないので、全く痛んでいなくてモデルらしくないと言われ、次は、髪の毛を染められました。ピンクにしようか、グリーンかなどと言われて、結局、脱色して金髪になりました。70年代半ばですから、髪を染めている人などほとんどいません。他のモデルさんもそうでしたが、私もスカーフを被って帰りました。夫は怒りませんでしたが、呆れていました。スカーフ無しでは、どこも歩けません。しばらくして、茶色になり、世間も染める人が増えて来て、いくらかまともに成りました。

フジテレビのエキストラの仕事もあって、スタジオでは、あおい輝彦さんの背景になって、喫茶店のお客でコーヒーを飲んでいました。ワンシーンで特別な衣装も無く、そのまま着て行った服装で座っていましたが、何と言うドラマだったかは、覚えていません。テレビ局の入口で遭った池内淳子さんが綺麗だったという印象だけが残っています。
ある時は、花嫁さん着付けコンテストのモデルになりました。私は、楽屋で白塗りにされ、文金高島田の鬘をつけ、長襦袢までを着て出番を待ちます。楽屋は大賑わいで、いろいろなお嫁さんがいますが、煙草スパスパ、だらしなく足を組んでいる人、とても初婚のお嫁さんに見える人はいません。舞台には10人位ずつ上がり、そこで着付けの腕が競われます。速さと仕上がりの良さで点数が付きます。私は、美容師さんが動きやすいように、腕を上げたり、体を回したり、出来る限り協力します。出来上がると、審査員の前で回って見せ、舞台を下ります。終わってから鏡で見て、やはり花嫁姿は嬉しいものです。今の様にスマホが有ったら、写真を撮れたでしょうに。私は、ウエディングドレスで、簡素な式でしたから、こうやって着物も経験できたのは、何となくラッキーだと思いました。私を担当した美容師さんは、優勝は逃しましたが、入賞はしたようです。その後、なぜか円形脱毛症になり、モデルの仕事は止めました。

私は、物欲は無いのですが、装う事は好きでした。華やかなドレスなどもお姫様のようで憧れますが、私の場合は、あくまでも装いは、自分らしさの表現でした。人に見せるというよりは、一種のナルシシズムでしょう。「アンアン」の創刊号は画期的で、私も感化されたものです。八方尾根のスキー場で、ノーブラで長袖Tシャツに、Gパンで雪の中を歩いて突っ張っていました。でも、セクシーさとは無縁で、ノーブラの自由さを楽しんでいたのです。ブラジャーからの解放です。
街では、ミニスカート全盛期、冬でもみんな超ミニを履いていて、中年女性も皆膝上でした。駅の階段ではさすがに後ろ姿が気になり、ハンドバッグなどでお尻を隠して上りました。あるとき、バイト先の稲荷寿司屋のご主人が、「京ちゃん、恐い靴下履いているね」といいます。私は、夏で暑かったので、肌色の網タイツを履いていたのですが、そんな風に思われるのかと思いました。だからと言って、気にはしませんでした、おじいさんの言う事でしたから。

すこしずつ豊かになって、イッセイやワイズ、ケンゾーの物を着るようになりました。やはり、捉われない自由さが好きでした。それと共に好きだった着物も買うようになりました。やはり芸者の血筋でしょうか、着物は大好きでした。派手な物や繻子のは苦手で、地味な感じの物ばかりでしたが、京友禅や加賀友禅は好きでした。大島や牛首、小千谷等の紬が好きで、辻が花や変わった絞りのお洒落着など、もちろん着付けは習っていました。ニューヨークでのオペラやお茶の稽古、日本でもパーティにはいつも着物で行きました。残念な事に最後に買った結城紬は、機会が無く結局袖を通せませんでした。

早稲田に古風な髪結いさんがいると、新選組好きの真美ちゃんから聞いて、そこに行くようになってからは、髪を結ってもらうだけではなく、着付けもそこでするようになりました。そこは、普通の古い日本家屋で、入ると物凄く散らかっていて、鏡2つの前に普通の木の椅子に座布団が敷いてあるだけです。私と同い年の髪結いさんは、櫛とヘアピン、ゴムだけで、ドライヤーもカーラーも使わず、ちょこちょこっと15分も掛からず、素敵に髪をアップにしてくれます。着付けも美容院とは全然違います。結ぶ紐がきつくなく、ふわっとしていて、それで着崩れないのです。着ていて楽で、微妙に粋なので、嬉しくなります。勿論、とても早く、値段も驚くほど安いのです。そこでは、シャンプー台などはないので、普通の古い洗面台で、前向きに髪を垂らして洗います。
その髪結いさんは、2代目で神楽坂の芸者さんや、バーやクラブのママさんが常連の様でした。とても内気な人で、電車に乗るのも駄目で、ほとんど早稲田から出た事が無いと言い、江戸弁をしゃべります。
それはもう聞く事も無い、本当に懐かしい下町の言葉です。しばらくして、その家に男の人がいるように成りました。ラッキーな髪結いの亭主です。彼女も何となく幸せそうでした。

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