風の中の私 22

──やっぱり懲りない書く事は──

ニューヨークで習う

私は日本に居る間、本当に忙しくて、自分の時間と言う物がほとんど有りませんでした。本は買ってもそれこそ積読で、いつか読みたいいつか読みたいと思っていました。ですから、ヨットで1日中本を読んでいられたのは、とても幸せでした。ニューヨークに着いても紀伊国屋書店が在ったので、値段は高かったですが、読むのに不自由はしませんでした。読売新聞も買えて、その週刊誌の広告欄が楽しみでした。見出しだけでも日本で起こっている事や、話題になって居る事が少し分かります。

日本にいる間も時間が有れば、習いたい事やしたいことは沢山有りました。それが少しずつニューヨークで叶いました。日本人向けのミニコミ誌で、お茶の先生が居ることを知り、場所はブルックリンでしたが、地下鉄で行けるので習う事にしました。先生は表千家で、アパートの中は、畳を入れて日本間になっていました。先生も息子さんのお嫁さんもいつもきちんと着物を着ていらして、佇まいが素敵でした。私は本来、「型」と言う物が、「自由」の対称関係にあると思い嫌っていました。でも、お茶などの所作は、型の域を出てしまえば、優雅で魅了される動きです。それに憧れ、お点前にも憧れ、初歩の初歩から習い始めました。習い始めると、型とは無駄な動きを省く事だと思いました。無駄が無いから美しいのです。後に日本で夫の友人がお茶を習っていたことがあって、その方から稽古茶碗を沢山頂いたのですが、ヨットマンのその方に「なぜお茶を習ったのですか」と聞くと、「お菓子が美味しいから」と言われました。ニューヨークにも和菓子屋さんが在って、お稽古の時に美味しい和菓子を頂くのは楽しみでした。生徒さんにアメリカ人は居ませんでしたが、和菓子屋さんでは、アメリカ人を多く見かけました。日本的甘味もアメリカ人に受けるとは思いませんでした。
半年ほど習った頃に春が来て、恒例の桜まつりがブルックリンの植物園で行われ、表千家では、着物ショーとお茶を点てる事になりました。私もお気に入りの牛首紬を着てショーに出たのですが、今思うと、華やかな京友禅を着れば良かったと思いました。若くは無いし、目立つのも好きでは無いので、そうしたのだと思いますが。

次に私は、歌を習いました。友だちになったジュリアン(時々登場しますが、カツミちゃんと言うのが本名で、六本木のゲイバー時代の名前だそうです。見た目は、イガグリ頭で、ややポッチャリさんです)の友だちにピアノを弾いていらっしゃるOさんと言う方が居て、その方に声楽を教えて貰いました。私は楽器に苦手意識があり、ベートーベンの歌曲を歌いたいという願望も有りました。これも初歩の初歩ですから、コーリューブンゲンのような、ドレミのレッスンでしたが、ピアノを習うべきだったと今は思います。グランドピアノも持っていたのだし、不器用でもやるべきだったなと70歳過ぎると思います。特にPCで左手が使えないので、そう思います。ピアノが弾ける人にも憧れは強いのですが、自分はダメだと思ってしまって、チャンスを逃しました。夫は子供の頃に習っていたので、結婚した頃にはまだ少し弾けたようです。

ニューヨークにはジャパンソサエティが在って、小規模の日本人街も有りました。私は、ジャパンソサエティ主催の「日本語を教える講座」にも行きました。そこでは偶然、今の皇后雅子様のお母様小和田さんと隣の席で、一緒にお勉強をしました。気取りのない気さくな方でしたが、あまり無駄話などは出来ませんでした。言葉と言うのは、日本語が喋れるからと言って、教えられるものではないという事も良く分かりました。英語はと言えば、雰囲気には慣れたもののやはり、ヒアリングが苦手で、住んだからと言って上達はしませんでした。そして、今度こそと思い、METのジョーから紹介された先生に個人レッスンを頼み、ハーレムまで習いに行きました。その頃のニューヨークは、市長が変わって、42丁目のポルノ街がディズニーの資本の町になり、マンハッタン全体が安全に成りました。私たちは地下鉄にも乗り、ハーレムにも行けました。英語の先生は、元バレリーナ―で素敵な人でしたが、教えた経験は無いようでした。特に教材も無いので、彼女が新聞のコラムなどを切り抜いて、それをテキストにして、勉強をしました。彼女は日本語が全然出来ないので、英語で質問して、英語で答えが返って来ます。何回か通いましたが、私には合わなくて止めました。もっと趣味など興味のある事について英語で話していた方が良かったと思いました。

秋になって寿司清で、お料理の講座が週1回で5回開かれました。1回目はちらし寿司で、2回目は懐石料理、3回目は和菓子作りで4回目はフレンチ、5回目はデコレーションケーキでした。お料理も習う機会がなかったので、楽しみましたが、ケーキはスポンジを丸めたノエルで、絵の才能がないので、仕上げの飾りが上手く行かず、不出来なものでした。でも、もちろん美味しかったです。

一つ出来なかった事が有りました。やはりブルックリンに喜春さんという元新橋の芸者さんが居ることを知って、三味線があるのだから、教えて貰おうという事になり、Kちゃんと一緒に挨拶に行って三味線を預けて来たのですが、結局気おくれがして行きませんでした。その頃、喜春さんは80歳位でしたが、本を5冊も出版されていて、とてもお元気でした。凄いのは、年下のボーイフレンドと一緒に住んでいるのですが、銀行に60歳だと年を偽ってお金を借り、住んで居るアパートをローンで買ったという事です。Kちゃんと話が良く合い、そんな事まで聞き出したのです。三味線を取りに行く事も出来ず、それっきりですが、喜春さんにお会いできただけでもいい思い出です。

ニューヨークで一番画期的に出来たのは、やはり歩く事でしたね。何しろ歩くのが楽しい街で、あっと言う間にダウンタウンまで歩いてしまいます。セントラルパークは逆に広くて変化が在って、本当に都会のオアシス、憩いの場所ですね。今頃は、とても綺麗でしょうね、紅葉が。

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