癌ステージⅣを5年生きて 10

散骨の風ディレクター KYOKO

大腸癌ステージⅡからステージⅢa

結腸に癌が有り、ステージⅡと思われるが開けて見ないと確かではないとの事。手術のため、10日後に入院が決まった。私はネットなどで、大腸癌の事をいろいろ調べて見たが、5年生存率がステージⅡなら70%(当時)、ステージⅢでも65%(当時)らしく、手術が上手く行けば、絶対助かると思い「死」を考えた事はなかった。当然手術は上手く行くと勝手に思っていたのは、私が楽天的なせいもあるが、彼はいつも死なないでいる。ベーリング海でもメキシコ沖のカリブ海から吹き抜ける強風でも、太平洋の荒波の中で、いつも全身ずぶ濡れ潮だらけになり、10何時間も一人で頑張っていた。

2つの事故

新婚時代、北海道北部にある朱鞠内(しゅまりない)湖(こ)をドライブしていた時、ガードレールも無く未舗装の細い山道を走っていて、突然タイヤが路肩を踏み外した。私たちが友だちから買ったボロボロのバンは、3回転して崖から落ちた。私はその瞬間気を失ったが、夫は、1回転、2回転、3回転と落ちながら数えていたそうだ。キャンピングカーのように調理用具や寝袋などを積んでいたから、フライパンは飛んで来る、まな板も来るで、避けるのに大変だったらしい。とにかく、車は太い木の根本にひっ掛かって、逆さまに止まった。かけっぱなしのラジオからは、夏の甲子園決勝戦の模様が熱気を帯びて流れていた。夫は車を抜け出し、私のシートベルトを外して、窓から引っ張り出してくれた。車から身の回りの荷物だけを持ち出し、崖の上の道路まで上がって見ると、彼はかすり傷一つ負っていない。私は右鎖骨に痛みがあったが、骨折ではなくヒビのようだった。めったに車など通らない山の中腹の道で途方に暮れていると、1台の仕事中の車が通った。訳を言うと親切に札幌まで乗せて行ってくれた。本当に助かりました。

2度目は、彼がカメラマンを始めた頃、早朝の陣馬山の写真を撮りにバイクで行った時である。夜10時頃、私が「八つ墓村」のTVを見ていると、「怖いから止めてくれ」と言い出した。私が「お化けじゃないから、大丈夫よ」と言っても、「それでも嫌だ」と言ってオフロードバイクに機材を一杯積んで、山に向かった。その頃は昭島に住んで居て、そこから八王子を抜け高尾山方面へ、途中から真っ暗になる山道を1人で走って行った。

山道ではバイクのライトだけが頼りだった。ところが、途中でバイクがエンストし、それと同時にライトが消えた。そこで路肩に足を着くと地面が無い、そのまま真っ逆さまに崖を落ちて行った。それでも夫は全く無事で、そのバイクと重い機材を星明りだけを頼りに、上まで運んだのだ。実にタフである。自衛隊でもレンジャー部隊は大変だったと聞くし、冬の岩場では、凍った岩壁にカラビナで小型テントを張り、命綱を付けてハンモック状にして寝ていたという。日常でも荷物は必要が有れば100㎏位は持った。

あくる日、「眠い眠い」と言いながら、彼は普通に家に帰って来た。でも、「あんなテレビを見せるから、落ちちゃった」と言っていたが、全身それ程汚れてもいず、早朝撮った写真は、馬のオブジェの後ろの朝焼けが美しく素晴らしい出来だった。

内視鏡手術失敗、その後開腹

さて、手術の朝、外科の先生は早めに挨拶に見えて、定刻に彼は全身麻酔を掛けられ、腹腔鏡による癌腫瘍摘出手術が始まった。先生も彼が太っているので、開腹手術にした方が良いか、散々迷っていたらしい。9時から始まった手術を、私は家族待合室で1人待っていた。しかし、様子が変で午後4時になっても終わる気配がない。結局、腹腔鏡では上手く行かず、午後6時頃から開腹の手術になった。状況は悪く、出血多量で輸血がどんどん増えた。いざ足りなくなったら、私はO型だからA型の夫の輸血に使って貰おうと思った位である。途中で、1人の先生が帰ってしまい、手術は夜中の12時過ぎまで掛かった。彼は麻酔の眠りの中で、帰ってしまう先生の話声が聞こえたと言う。「スポーツマンで、体力が有るから大丈夫ですよ」と、O先生に言っていたと。目が覚めて先生に聞くとその通りだったらしく不思議そうな顔をしていたらしい。

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