癌ステージⅣを5年生きて 21

散骨の風ディレクター KYOKO

抗がん剤投与中

その日の抗がん剤が終わると、おみやげが付く。それは薬が入った小さな牛乳瓶位のボトルで、それに付いている管をポートに射し、専用のバッグに入れて首から下げて持ち帰る。そのボトルの中には球状の袋が有り、薬が減った分だけ球が萎(しぼ)み、2日弱で終わる計算だ。投入中も行動はいつもと変わらない。薬の副作用で最初は両手にしびれが有り、多少だるさもあったが、吐き気は無く、食事も普通に摂れた。その夜は、通院の疲れでたくさん寝て、翌日起きたら元気だった。

薬が無くなりボトルの中の球が棒状になって、ポートから管の針を抜いた。体に何か付けているというのは煩わしく、外れてスッキリとする。体は凄く元気で調子が良いのに、心は何となく悲しかった。家の中の雰囲気に元気が無い。私の気持ちは複雑だった。本音では、ホッとしてもいたのだ。長生きする心配が無いのは安心でもあったから。多分、認知症にも寝たきりにも成らないだろう。

女であること

5月31日に告知を受け、暗かった6月があっと言う間に終わった。6月の末頃から髪の毛が抜け始め、数本抜けたと思ったら、2,3日で一気に全部抜けてしまった。こうなるとは聞いていたが、そのショックは大きかった。映画「黒い雨」の中で被爆したヒロインの髪が抜けていくシーンがとても胸を打ち、自分がその立場になると、悲しくて悲しくて、涙が止まらなかった。若い頃は髪を長くストレートに伸ばしていたことが多く、八方尾根のスキー場でアルバイトをしていた頃は、流行っていた歌のせいで、夜毎の飲み会で「酔いどれかぐや姫」などと言われていたものだ。

その私には子供の頃から変なこだわりがあって、男の子みたいと言われる事がとても嫌だった。赤と青のお守り袋も青は男の子のだと赤で無ければ嫌だったし、スカートが好きで、ズボンはほとんど履かなかった。女であると言うこだわりが人一番強い私にとって、鏡の中のツルツル頭の顔を見て、「髪の毛は女の命」と言うのは本当だとしみじみと悲しかった。

私の育ち

私は女と言うこだわりが強かったが、必要以上に女っぽいのも嫌で、自我が目覚めると人間という意識が強くなり、女らしくは無かった。中学も高校も公立で旧制の男子校だったから、50人近いクラスに女子は10人位、それが居心地好く、意識的には男っぽかったと思う。周りに偏見がなかったせいか、男に成りたいと思った事は無く、女に生まれた事が幸せだった。「男はつらいよ」ではないが、男の人は大変だと思っていた。でも一つだけ、父は古い人間だったから、「女に学問はいらない」、「勉強などしなくていい」と言われていて小学校の時には、本ばかり読み、全然勉強しなかった。それが未だに最大のコンプレックスだ。母は働いて家事も熟(こな)していたから忙しく、長女である私には、年上のお手本がなく育ち、勉強の仕方一つ分からなかった。あの子供の頃の記憶力があれば、どんなにいろいろな事が覚えられただろうとつくづく思う。

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