癌ステージⅣを5年生きて 52

散骨の風ディレクター KYOKO

研修医の先生

どこの病院でも研修医の先生は大変だと思うが、ここ東大病院でもたくさんの研修医の先生にお世話になった。他の病院は良く知らないが、ここでは頻繁に移動が有り先生が変わる。チームのリーダー的先生は変わらないが、その中にいる先生はよく変わる。やっと名前を覚えたのにと思うと変わる。その中の1人夫好みのイケメン先生に夫が声を掛けた「先生も手術の時に活躍したんですか」彼は恥ずかしそうに「ええ、まあ」と答える。ガーゼを持って出血量の管理をしていたそうだ。みんな忙しそうで長くおしゃべりをする暇はない。

入院生活 1

私は若い頃、病気とは縁がなかった。だから一度入院というものをしてみたいと思っていた。主人は何度入院したことか。結婚前にはずいぶん看護師さんと仲良くなったらしい。そのことはもう言わないが。私はいつも忙しく、入院したらゆっくり休んで、寝て、本もたっぷり読めると思っていた。入院の辛さなど考えた事もなかった。病気や怪我で入院するのだから、どこかが痛くて苦しくて当たり前、いろいろな人に気も使う。あこがれは飛んで、現実が残る。私の場合、手術の傷の痛みは多少あったが、すぐに動けるようになると、結構気楽に売店でお菓子を買って来て食べたり、普段見ないようなバラエティ系テレビを見たり、もちろん本も読んだ。そして最近まで凝っていたのが、刺し子や、キルトや編み物だ。不器用で結果は良いものにならない。だが、単純作業が好きなのだ。決して丁寧でも慎重でもないから、一目一目がいい加減で、人には見せられない。私は貧乏性で、テレビなどを見ていても手が空いているのが嫌で、たいてい2つの事を同時にする癖がある。PCをしながら編み物をしたり、色々なことが同時進行で、失敗も多い。特に最近は洗濯機が止まったのを夕方まで忘れていたり、お鍋もよく焦がす。だから編み物も目が分からなくなったりしてよくほどく。せっかちでもあるのだが。

難問に挑む

夫と知り合った頃、編み物をした事が無かった私は、「何を編んで欲しい」と聞いて、その答えに絶句した。「ニッカズボンの下に履くズボン下」つまり毛糸のひざ下の股引である。てっきり、帽子とかマフラーと言ってくれると思っていた。それでも本と格闘し、水色の毛糸をたくさん買って頑張った。幸い編み物の得意なちょっとおネエさんぽいコックさんがいて、教えてくれたりもした。股の前は空くようにした。不揃いな目ながら、完璧な物ができた。その頃夫は細かったが、腿の筋肉がすごく、ズボンなどは、腿の太さに合わせて買っていた。その股引は、今までの私の最高傑作だと思う。もう、作れないだろう。ただただ愛情だけで編んだ。夫は喜び、これで冬の登攀も暖かい。その股引は、やがてフエルト状になった。水もはじく。それは山と共に去った。

次の難問は、山の道具屋に飾ってあった超高級セーターだ。確かにカッコイイ。襟付きで、フロントファスナーだ。今回も似たデザインを本から探し、紺の毛糸をたくさん買って編んだ。そのセーターを着た彼の写真は、とてもハンサムに写り、極めつけの1枚で今も飾ってある。

一昨年は、ルイ・ヴィトンのお店で見たロングマフラーを作れと言う。私は絶対に否(ノン)と言わない。濃紺で2m位あるゴム網のマフラーを作った。これをしてヴィトンに行ってみようと銀座松屋に行ったが、店頭のディスプレイからそのマフラーはすでに外されて、誰も気が付かなった。

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