風の中の私 20

──やっぱり懲りない書く事は──

さすらいの寿司職人

クリスマスパーティで知り合ったジュリアンことカツミちゃんが働いている日本料理店に池谷さんと言うお寿司の職人さんがいました。彼は東京出身で私たちと同年配の旅好きでした。アルバイトで日本レストランに勤め、お金が貯まると世界中を旅行しているのです。アイスランドの日本食レストランにも2年ほど居たそうです。温厚で気が良いので、英語圏中心なら、手に職が有るので就労ビザを取り、働けるでしょう。私たちが居た時には、ちょっとマダガスカルに行ってきます、と気楽なものです。中野に住むお姉さん一家の甥や姪からは、フーテンの寅さんと言われ、好かれているようでした。いつも行った先から、絵はがきを呉れるので楽しみでしたが、私たちが引っ越しばかりしているので、いつしか途切れてしまいました。アフリカで一度だけ強盗に襲われ、恐い思いをしたと言っていました。

43丁目に事務所を借りた時、グランドピアノも来たのでパーティを開きました。その時は、寿司パーティにしたので、池谷さんに来てもらいました。何人招待したかは、覚えていませんが、パーティ好きのニューヨーカーは、友だちも連れて来るので、かなり集まり、池谷さん一人では、行列が出来て大変でした。予め作って置けば良かったのでしょうが、段取りも悪かったのです。

お寿司のパーティと言えば、私たちも大変だった事が有ります。ワシントン州のカナダ国境の町ベリンハムにヨットが着いた時です。アラスカでマストにヒビが入った時、助けてもらい、恩人とも言えるミセススー号の漁師ダグの家に寄ったときです。奥さんのスーと小学生のお嬢さん2人がいて、一家でピザを取って歓迎してくれました。しかし次の日、友だちを呼ぶから寿司パーティをしようと言う事になり、日本人なら寿司を作れるだろうとすっかり任されてしまったのです。台所には、炊飯器もお米も海苔も食材も揃っていました。でもマグロの塊は、和風の縦長の塊ではなく、ステーキにするような塊で、それを刺身状に切るのに夫は苦労していました。私も稲荷ずしとのり巻き以外は作った事が有りません。それでも船から稲荷ずしの素の缶詰を持って来て、かんぴょうの煮た袋詰めが買ってあったので、のり巻と太巻きにお稲荷さんを作りました。ご飯も炊飯器で2度炊いて、夫は器用で普段からお寿司屋さんのカウンターを覗いていましたから、見よう見まねで、マグロとサーモンとエビ等を握りました。

この町はシアトルに近いので、そこまで行けば、日本食品は何でも手に入ります。因みにベリンハムは、「マジソン郡の橋」にも出て来る町です。私たちは、そこの小学校で、講演を頼まれましたが、拙い英語では、とてもとてもそれどころでは有りません。折り鶴の作り方の講義にしてしまいました。今では折り鶴は、英語の単語にもなっています。私が見た映画でタイトルは忘れましたが、英語のスペリングコンテストで、一番難しい単語が折り鶴でした。豆腐や布団ほど一般的では無いのでしょうね。私たちのアルバムには、お寿司を前にぐったりしている私たちが写っています。

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