お客様の声・風の声 2003年10月
2003/10/29 心の整理がつきました
2003/10/27 34年前の約束
2003/10/26 天気が悪くて、ごめんなさい・・・2
2003/10/24 こだわりの横浜・・・2
2003/10/24 こだわりの横浜・・・1
2003/10/21 青空のSORA・・・5(捜索)
2003/10/21 青空のSORA・・・4(退院、そして行方不明)
2003/10/21 お天気が悪くて、ごめんなさい
2003/10/21 早世した後輩の本棚・・・3(ノモンハンの夏)
2003/10/18 京女に赤いバラ・・・2
2003/10/18 京女に赤いバラ・・・1
2003/10/07 Sさんからのお便り
2003/10/04 青空のSORA・・・3
2003/10/04 青空のSORA・・・2
2003/10/04 青空のSORA・・・1
2003/10/04 最愛の旦那様のもとへ
2003年10月29日
心の整理がつきました
10月17日の合同散骨に参加されたSさんから、お便りを頂きました。承諾を得掲載します。
先日は大変お世話になりました。お陰様で心の整理がつきました。
姉も良い納骨(散骨)が出来たと喜んでおりました。故人も魚釣りが好きで、自然(海)が好きだったので、大変喜んでいると思います。
諸事情があり、今回散骨してもらいましたが、自分の場合も一部、海あるいは山、自然がいっぱいの所に散骨してほしいと思います。
本当に色々ありがとうございました。
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2003年10月27日
34年前の約束
ご遺骨をお預かりするとき、いつも思う。今は、骨壷の中に小さくなって入ってしまっても、皆そこには、いろいろな人生がつまっているのだと。長かった人、短かった人、幸せだった人、不幸だった人。生きている時には、逢えなかったそれらの人々との不思議な出会い。
Iさんは、再婚されて穏やかなリタイアの日々を送っていらっしゃる。前の奥様は、息子さんを生んで一年目で亡くなった。24歳、急性白血病だった。思わず夏目雅子さんを思い出してしまうが、きっと美しい人だったのだろうと想像してしまう。1969年のことで、そのころに流行った映画や小説のようだが、現実の話であり、そこにあった悲しみは、とても言葉に表せなかったと思う。
そのころ会社が藤沢にあったIさんは、海の側に住んでいた。亡くなる前の彼女との約束、それは、「死んだら海に還してほしい」ということだった。
30数年経ち、日本も変わった。Iさんにもいろいろなことが、お有りになったと思う。息子さんも成人し、新しいお母様と仲良く暮らしている。かつて、散骨ということが、世間では認められていなかったが、時代も大きく変わり、年々、海へ還る人は倍増している。
教会の納骨堂に預けてあった彼女のご遺骨は、明るい陽射しの中、約束どおり湘南の海に還された。その日は、34年目の命日の前の日だった。
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2003年10月26日
天気が悪くて、ごめんなさい・・・2
悪天候の中、お父様K氏の御遺骨を散骨された、お嬢さんHさんからメールをいただきました。日誌への掲載をお願いしました。
こんにちは、Hです。昨日は悪天候の中、ありがとうございました。
はじめて経験するすごい揺れに正直びっくりしました。散骨を終えて帰路に着く途中も豪雨でスゴイ日にやっちゃったね、と話していました。
でもなんとなく一筋縄では終わらないところが亡くなった父らしいな、とも思い、かて良かった気がしました。一生忘れられない日になりました。
色々と悩みましたが風さんにお願いしてよかったです。本当にありがとうございました。これからもがんばって下さい。
それでは
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2003年10月24日
こだわりの横浜・・・2
Nさんから、お便りを頂きました。承諾を得、掲載します。
拝啓
先日は、お世話になりました。素敵な証明書を送っていただき、感謝しております。早々、少しだけ手元に残した、父の遺灰と一緒に並べて置いています。
散骨当日は、私たち家族にとって、とても和やかな楽しい時間を過ごす事が出来ました。それぞれが、遠くを指差しながら話をしたり、写真を撮ったり、ベイブリッチをくぐった時は皆で歓声をあげたりと、自然に明るく楽しい雰囲気となって、とても良い思い出となりました。(アシスタントの方によろしくお伝えください。マリーナで貝殻で遊んだり、魚を探したり遊んでくれて、とても楽しかったと娘が申しておりました。)
陽に照らされてキラキラ光る海を眺めて、潮風にあたっていると、本当に気持ちが解放されました。花びらと共に波に揺られながら、遠くなっていく遺灰を見送った時、父はこの大きな・・・永遠の自然の中に還ったのだと。そして、私が海や風に触れる時、そこには、いつでも父が在るのだと感じました。
父に限らず、魂はとても自由で、亡くなったとしても、いつも側にいるにだと思います。
今回、散骨を終えて改めて「風」という会社を知り、船長ご夫妻に出会えた事をとても感謝しています。希望どうり散骨できたというだけでなく、家族の気持ちや背景を理解し、共感して下さった、お二人に確かな信頼を感じ、お任せする事ができました。それがとてもラッキーな事だったと思います。
お二人は、とても大事なお仕事をされていると思います。「自然」と「心」を相手に、お仕事をなさっているからです。どうぞお身体に気をつけて、多くの人々の為にご活躍下さい。私も今回の素晴らしい体験を、多くの人に伝えたいと思っています。
敬具
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2003年10月24日
こだわりの横浜・・・1
私(カウンセラー)の父は、江戸っ子で、東京へのこだわりが強い人だった。だから私も、自分の名前を言う時、普通は京都の京です、と言うところを、東京の京です、と言う。
同じように横浜の人も、横浜にこだわる浜っ子の誇りを持っている人が多い。
今回も依頼主のNさんは横浜にこだわっていた。彼女は結婚式の披露宴も横浜クルーズだったり、いろいろな思い出が横浜の海に結びついていると言う。
東京湾も沿岸を離れれば、問題はないが、やはり水は汚く船も多い。それでも、やはり横浜という方は、意外に多いのだ。
海からベイブリッジ越しに、街並みを眺め、さらに橋を潜る。雲間から青空も顔を出し、海面も穏やかだ。やがて船は180度転回して沖へ向かう。清々しい秋の空気がさわやかに顔にあたる。東京湾を縦断する船、横浜港へ入る船、船の航路を避け、Nさんのお父様のご遺骨を海に還した。
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2003年10月21日
青空のSORA・・・5(捜索)
縁側のガラス戸の少しの隙間を、鼻でこじ開けたのか?縁の下にはいないのか?家の周囲は?いやいや、室内にいるのかも?と、大騒ぎになった。
この日は船の整備があるものの、妻は家に残ることにした。作業中心配で頻繁に電話を入れるも朗報はない。
「自分の育った海岸が恋しくて、海の方へ行ったのかしら・・・」とか「このまま見つからないと彼女の闘病生活は無駄だった・・・」また「三本足では野良猫では生きていけない・・・」とか電話の向こうで、意気消沈した妻の声が聞こえ、私も生返事を繰り返す。
作業を終え、帰宅し入浴。夕食は餃子である。いつもより不味い。「ア、生姜を入れ忘れた・・・」と、なにかと上の空である。
食後の会話も少ない。「何か、音がする!」と、妻が小さく叫んだ。確かにソファーの中からモゾモゾと音がしている。ニューヨークで購入したソファーベットである。その構造はかなり複雑で、SORAが居る処までなかなか手が届かない。アクロバチックな姿勢で、やっと温かく柔らかいSORAの体に手が触れた。「ミー!」と短く鳴いた。
十時間は行方不明だった。慣れない環境で、安全そうなここに逃げ込み、寝込んでしまったのだろう。空腹か、トイレへ行きたくなり動き出したのだろうか。私たちはSORAを抱きその場に座りこんだ。
SORAの首に鈴を付けた。「イルカの好きだったH君」のお母さんから頂いた「鯖大師、開運招福」と刻印してある四国遍路の土産である。干支の猪も彫ってある。
昨日、お隣の漁師から頂いた「松輪の鯖」も、秋の声をきき、脂が乗りますます旨くまった。SORAも鯖大師の鈴を鳴らしながら、ガツガツ食べていた。あれから一週間たった、SORAは随分重くなった。
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2003年10月21日
青空のSORA・・・4(退院、そして行方不明)
SORAの入院は長引き、14日にやっと退院となった。10日以上入院していたことになる。彼女の病状もさることながら、治療費の清算が気になる。
治療費の請求は五万円弱、支払額はその半額となりホットした。「野良ちゃんだから・・・」と獣医は、優しさと弱気が同居している。
楽観的だった獣医の診断だったが、右後足は奇形のまま、獣医は「三本足で充分やっていける」と、これまた楽観的である。
戸外には老犬2匹、室内には老猫2匹、そしてSORA、また家族が増えてしまった。SORAはメチャクチャ可愛い。小さな顔に好奇心いっぱいの大きな目、耳もアンバランスに大きく、いつか見たアニメ(宇宙が舞台)の猫そっくりである。
食欲はしっかり有り、傷口の開いている患部に薬をつけるだけで充分という。老猫2匹は興味はある物の、その存在を無視している。SORAは、ソファーに寝転んだ私の腹の上で毛布に包まり、顔だけ出し、忙しなく周りの音や動きに反応する。
柔軟で軽く、温かい体。力強いキック、私たちを見つめる瞳、久しぶりの仔猫に愛を感じる。妻は心配性で寝不足となる。
少し目を離したスキにSORAがいない。縁側のガラス戸が、4センチ程開いている。
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2003年10月21日
お天気が悪くて、ごめんなさい
いつものことながら、お天気は本当に難しい。天気予報は当たらない、と思っていると、たまには当たる。嘘つき少年のように、いつも嘘をついていると、本当のこといっても誰も信じないのと同じように、天気予報もなかなか信じられない。
2日続けて横浜で散骨があった先週は、1日目と2日目では雲泥の差がつくお天気となってしまった。
2日目のKさんご一家のときは、ぎりぎりまで悩みながらの出航であったが、結果的に皆さんに大変辛い思いをさせてしまったようだ。東京湾の中で、左程遠くまで行かないということで、決行したが、安全そのものには、問題はなかったが、小さなお子さんを始め、皆さん不安で恐かったようだ。私も人一倍臆病なので、気持ちは良く分かる。雨まで強くなって正に最悪の天気になってしまった。
普段は、ほとんど無理をしない、しなさ過ぎると思われる時もある。ご参加になる方々の中には、釣りなどで船に慣れている方もいて、これくらいで出ないの、と思われる方もいるのだが、一つのグループには、大抵お年寄りやお子さん、船に弱い方、不慣れな方、いろいろな方がいらっしゃる。だから、特に船に弱い方を除いても、皆さんがある程度、正常でいられるような条件で行いたいと思っている。
しかし、どうしても日にち優先の場合もある。地方から出ていらっしゃる方がいたり、ホテルやレストランの予約、また全員のスケジュールなどがあるからだ。その場合は、少々我慢していただいて、強風注意報くらいまでは実行することになる。同じ思い出なら、本当にいい海に出会って、更に海を好きになって帰ってほしいのだが。
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2003年10月21日
早世した後輩の本棚・・・3(ノモンハンの夏)
アメリカでの会話である。「若者にとって、最も必要な勉強は?」と問うと、多くの人の答えは「歴史」と答える。哲学、思想、科学・・・ではなく「歴史」と言う。人はその属している文化・民族から逃れられない。回教圏の国々には、宗教を超越した民主主義は根付きそうにないし、ロシアはある種の強権的指導力で国がまとまる。広大な中国を、このまま一つの政府で統治できるのだろうか?お金が大好きな中国人が共産主義体制で満足できるのだろうか?
Kの本棚から借りてきた半藤一利著「ノモンハンの夏」を読んだ。私(船長)の父は「ノモンハン事件」に従軍した。父の戦争体験は聞いたことは無い。聞いても話したく無いようだった。ただ、モンゴルの草原を馬上、何日も旅した思い出を話したくれた。
日本の政治文化で、逃れ得ないものは「官僚の政治支配」なのだろうか?この本を読んで、作戦参謀の机上のプランで、戦場では沢山の将兵が死傷していく。エリート参謀は作戦の結果に責任を取る様子も無い。勿論「人の生命は地球より重い」とは思わないが、あまりに軽すぎる。
現在の日本も、高級官僚たちは、失政や税金の無駄遣いに責任を取る様子も無く、新たなポストに栄転して行く。今、年間三万人の人たちが自殺する。この歴史書「ノモンハンの夏」を読むと同じ構図が、参謀・官僚、将兵・自殺していく人々とダブって見える。
中小企業は倒産すると、債務には例外無く個人保証が設定されていて、経営者は「一文無し」となり、従業員は路頭に迷う。官僚たちは別のポストに変わるだけで何の痛みも感じない。官僚にも激痛が行くようなシステムにしないと、真剣に緒問題の解決に取り組まないのではないだろうか?「歴史は繰り返す」では、たまったものではない。だから、歴史の勉強が必要だと思うのだが。
さて、父の話である。馬上、草原を旅し、夜更けになる。犬の声の方へ馬を進める。遊牧民のパオ(テント)がある。防犯のために夜は犬をパオの周りに放すという。人が出てきて犬を制する。一夜の宿を求める。この話は何度も聞いた。今、一握りの父の遺灰を持っている。出来ることなら、モンゴルの草原に旅しながら、馬上からそれを撒きたい。
追記
衛星テレビの「ヒストリーチャンネル」で、最前線の将兵の心理を解説したドキュメンタリーをみた。「激戦を経験した兵士は、戦場を思い出したり、語ることができない。記憶に無いからである。それは、人間が自分の脳、精神の安定を守るためのメカニズムが働くためだ。」と有った。
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2003年10月18日
京女に赤いバラ・・・2
台風級の嵐が関東地方を襲った、10月13日の前日、母親の散骨に立ち会われたR君からメールを頂きました。了承を得、掲載します。
船長、そして奥さん、昨日はありがとうございました。そして、非常に有意義な時が過ごせたことを感謝します。
乗船するまでは、もっと形式的なセレモニーになると想像していましたが、意外にもアットホームで、雰囲気がすごく癒される感じがしました。
散骨の時は自分の中では母への一つの区切りというか、けじめが着いたように思えます。そして、非常に大事で、忘れることにない経験だったと思います。
散骨から戻るときに船上から空を見ていると、日常の悩みやが小さくて、悩むこと自体がつまらなく感じましたね。
都会で、生活をしていると船長のような方に出会うことはほとんどありません。船長は自由な心を持っているし、しかも深さも持っていて、スケールが大きく感じました。
そんな船長に出会えたことも貴重な経験でしょうね。僕も、心はいつも自由でいたいと感じています。(僕はモラトリアムなだけかもしれないけど…)また再会できれば、幸いです。今回の散骨を『風』さんにお願いして、非常に良かったです。本当にありがとうございました。
そうそう、船長の言ってた“段ボールを使って火葬して散骨まで”というアイデア、僕は絶対成功すると思いますよ。ま、知識のない僕が太鼓判を押しても説得力はないでしょうけど…。
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2003年10月18日
京女に赤いバラ・・・1
彼は、イタリアで生まれ、5歳までイタリアで育った。お父様は、イタリア人、お母様は日本人である。その後、離婚され、彼はお母様と共に日本に、京都に帰ってきた。そのお母様が、6月に61歳の若さで亡くなった。
彼の家を訪ね、お母様についてお聞きすると、赤いバラのようなイメージだという。そしてお酒は、ワインかカクテルがお好きだったと。京都生まれの彼女は、東京湾で若いカップルに送られ、海に還った。秋晴れの10月の海、赤いバラに、赤ワイン、讃美歌の歌声が美しく悲しかった。
午後からの散骨だった。明日の天気予報は嵐、西の空は異常に透明な夕日が雲間から輝き海面を照らした。若いカップルのシルエットは、日が沈み闇に溶けていった。
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2003年10月7日
Sさんからのお便り
2002年9月9日掲載の風の日誌、「散骨(委託)の報告とSさんからのお便り」のSさんから、お便りを頂きました。亡くなったご主人の命日に合わせ送った、お見舞いの返信です。
早いもので、もう2年が過ぎました。本日、10月6日に姉と横浜そごうから出ています船に乗る予定にして折りましたが、折悪しく雨模様となり延期いたしました。
ようやく一人暮らしも板について参りました。今は、世田谷区の老人大学へお弁当持参でかよっていますが、学校の文化祭、クラブ活動、レポート、世話役などなど、毎日を忙しく過ごしております。
何時も、お心に掛けていただきまして、有り難うございます。何処かで、誰かが見守って下さると思うと本当に嬉しく存じます。
秋も深まりますと、朝晩も寒くなって参ります。どうぞ、お風邪など召しませぬように、くれぐれも、ご自愛下さいませ。
MS
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2003年10月4日
青空のSORA・・・3
二日続けて、午後からの散骨。海象の条件は昨日より更に良かった。秋の速度の遅い移動性高気圧のせいだ。夕日を左舷に東京湾に入る。
帰港し、後始末もそこそこに「SORA」の見舞いに行く。到着すると診察台の上で私をにらみ「フー」と言った。目のパッチリした可愛い子である。妻の愛撫にウットリ、ゴロゴロ言う。性別は女の子だった。
右後足の付け根に大きな穴が開き、化膿している。獣医は神経系には問題ないと言う。少しその足の発育が遅れて小さく、何ともアンバランスに痛々しい。リハビリが進めば普通になるかもと、楽観的な診断だ。
生後二ヶ月に満たない時間で、どれだけの不安と痛みを経験したのだろうか?退院後は我が家でリハビリし、獣医と協力し、新しい飼い主を探す事となる。ひょっとして老猫たちの孫になるかも知れない。未来は誰にも見ることはできないが、これまでの時間より幸せな日々で有って欲しい。
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2003年10月4日
青空のSORA・・・2
上々の散骨日和だった。快晴、波も穏やか、乾いた空気が快適だった。明日も散骨が入っているので、花屋に向かう途中、獣医に電話する。
仔猫の傷の原因は不明だが、化膿しているという。投薬と洗浄を数日必要という。入院が決まった。蚤がいっぱいで駆除したほかは、元気そうで一安心である。
他に、仔猫は見なかった。漁協の側は結構交通量が多く、鳶やカラスも多い。よく生き延びていたと思うし、散骨が午後であったり、車内の異臭で停車しなければ出会いのタイミングは無かったと思う。
昔、捨て猫を飼ったとき、付けた名前「ラッキー」とか「ラスチャン(ラストチャンス)」を思い出した。まだ性別も知らないし、我が家で飼えるかも分からないが名前は「SORA」にしようか?
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2003年10月4日
青空のSORA・・・1
今日の散骨は、珍しく午後の出航である。のんびりと、老犬たちと散歩をすませ、マリーナへ向かう。車内に異臭を感じ、車を止め靴底をチェックする。散歩中に何かを踏んだかと思った。
周りの畑は、三浦大根の作付けの準備中で、その肥やしの匂いが車内に入ってきたようだ。気を取り直し発車。最近にない、秋の見事な青空である。風も弱い。
丘の畑地から金田湾の海岸線へ下る。漁協を過ぎると、上り車線と下り車線共に数台の渋滞が出来ている。対向車線の軽自動車の前を、仔猫が足を引きづり海岸方向へ歩いている。車を止め、その仔を拾った。
手のひらに乗るほどの、生まれて1ヵ月半位の、雉トラの仔猫である。ガリガリにやせ、後ろ足は怪我している。それでも、妻の親指に噛み付く。この闘争心は捨て猫ではなく、野良の子どもと思った。
時間を気にしつつ、進路変更。老犬、老猫たちの主治医へ向かう。受付の女の子に事情を説明し、夕方取りに来ると、マリーナへ向かった。
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2003年10月4日
最愛の旦那様のもとへ
昨日、去年の今頃散骨なさったKさんのお嬢さんから、電話があった。お母様が8月に亡くなられたというのだ。去年、お会いしたときには、お元気そうで、とてもお優しそうなおっとりとした品の良い方だった。お年もまだ60代半ば位だったと思う。
私たちには、初めてのことである、喪主でいらした方が亡くなったのは。ご両親をご一緒にお預かりしたことは、何回かあったが。いつも配偶者を亡くされた方は、私もそのうち同じ場所にお願いしますよ、と言われるが、まだまだ先のことですね、と言って本当にそう思っているのだが。やはり、ショックである。
それに最近、旦那様を亡くされて、しばらくうつ状態から抜けられない奥様が多いことも気がかりだ。でも、それは本当に当然で仕方がないことで、時間しか解決できないのだとは思うが、何とか力になれないかといろいろ考えてしまう。くれぐれも無理に悲しみから抜け出す努力などしないで、じっくり悲しみに浸っていただきたい。
そして、周りの人も励まし過ぎないように、そっと見守っていてほしいと思う。そっと側にいるのが一番良いようだ。
Kさんのご冥福をそして、旦那様のお側でまたお幸せに眠れるよう心からお祈りしたい。
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