お客様の声・風の声散骨式などのエピソードを読める「風の日誌」を過去のものから全てを掲載しています。過去のものは右の目次からどうぞ。 2005年8月![]() 2005/08/23 北の海から オホーツクでの散骨 北の海から オホーツクでの散骨8月2日、オホーツク海網走沖で、Uさんのお母様のご遺骨が海に還された。北海道は、船長の故郷であるが、散骨で行くのは初めてである。 Uさんたちは、夏休みを利用して、親子3人、そして奥さんのご両親あわせて5人の参加である。今年は、北海道も暑く、連日30℃近い暑さとなり、散骨当日も蒸し暑い日であったが、幸い海は穏やかだった。 北の海というと、どうしても冬の厳しい風景を想像してしまうが、初夏から秋くらいまでは、穏やかな日も多いようだ。 南、沖縄の海は何回か散骨もし、明るく美しいが、夏の北の海も負けず劣らず、素晴らしい。壮大な自然に育まれた海は、透明度も良く本当にきれいだった。 今回、Uさんは、お母様が、高校の修学旅行で行ったオホーツク海がとてもきれいで、もう一度行きたいとおっしゃっていたことから、オホーツク海での散骨を決められたのだ。 ご病気で、50代の若さで逝ってしまったお母様への親孝行だが、きっと天国で喜んでいられることと思う。 そして、言うまでもなく、真夏の北海道は、別天地、何もかも最高である。青空の下、雄大な風景の中にいるだけで心豊かになるし、温泉あり、海の幸、山の幸、ドライブ中には、北キツネにも出会った。 Uさん一行も、お母様の散骨という目的で、訪れた北海道、きっと素晴らしい夏休みになったことと思う。 霧の中のオペラ・・・3Kさんからのお便りを、承諾を得、掲載します。 暑中お見舞い申しあげます。 7月16日に、式を行っていただいたKです。早速、記録と写真までお送り頂き、本当にありがとうございました。又、当日は本当にお世話になりました。 音楽はビデオまで御用意頂き、CDの選曲に到っては、まさにお願いしようかとも思っていた曲でした。 母が生前、「ドミンゴさんのオハコの曲なんだよ」と申していたのを思い出し、涙をおさえ切れませんでした。 こんな素敵な方に送って頂いて、母も喜んでいることだろうと思います。生前であればどんなにか話がはずんだことかと、それだけが残念でした。本当にありがとうございました。 追伸:これからは台風も多くなるのかと思います。お気をつけて航海なさって下さいますよう! 海の日、海に還る・・・2奥様の散骨をされたOさんからお便りを頂きました。承諾を得、掲載します。 散骨当日初めてお会いしたOさんは、船員であると聞いていました。寡黙な眼差しと大柄な体格の存在感が、信頼できる下士官を思わせました。操船時、隣に居られ、試験官に見られている様な緊張をしていました。 この度は海洋葬に参加でき、ありがとうございました。 妻の生前の言葉で「私が先に死んだら、海に散骨して欲しい」と言っていましたが、実は実際散骨にあたり私は迷っていました。 私たちには子供がいませんでした。それで良く考えた末、散骨をする事に申込ました。それでふんぎりがつき、心が決まりました。G葬祭の方に方法を聞きました処、Mさんという方が、インターネットで色々調べてくれました。 船が出港して城ヶ島沖での散骨の時、やはり淋しい気持ちと複雑な気持ちがいりまじりましたが、妻の好きだった歌「無法松の一生」を聞いておりました処、なぜか心がおちつきました。妻も喜んでくれたと思います。皆様、本当にありがとうございました。暑い中、お体に気をつけて下さい。 尚、7月25日の読売新聞の「編集手帳」で、故人を自然に帰す散骨は、仏教の輪廻転生の死生感に通じるものであるとありました。 燈台守長年、海上保安庁に勤務され、灯台に関わってこられたIさんの奥様からお便りを頂きました。承諾を得、掲載します。 今は電子航法(GPS)等が発達していはますが、暗い海を航行し想定した日時・場所にその灯台の明かりを見出した時の安心感と充実感は、今でも船乗りならではの思いではないでしょうか。映画「喜びも悲しみも幾年月」の主題歌が力強く流れるなかの散骨は、海の仲間の思いをしみじみと共感ました。 前略 京都のほうからも地蔵碑(分骨容器)が届き、御社からも写真、海洋葬証明書等、早速ご送付頂き、ありがとう御座いました。 一緒になって五十四年、青森から高知まで一度も別居生活することもなく、子供たちが独立してからは二人だけの生活をし、最後は我が家で私の介護を受け乍ら、苦しむこともなく静かに逝きましたので、先に見送って上げられた事への安心で、今は淋しさも感じず肩のかるくなった様な思いです。 散骨してよかったと言う思い、分骨して何時も身近で見守ってくれている安心感、毎朝の対話に一人暮らしの不安は感じません。 いずれ私も自由葬を・・・と希っておりますので、その時は又、お世話になるかと思います。近くの知人も内容が知ることが出来安心したとの事でした。 お世話になり、有難う御ざいました。 湘南の鯨8月5日、熱海沖でWさんの散骨が行われた。Wさんは半年以上ホスピスに入院なさっていた方だ。63歳で独身である。早くから、彼の面倒を看ていた姉夫婦に散骨を頼んでいたようだ。しかし、彼の兄弟や親戚では、反対する人もいたようで、簡単には話が決まらなかった。 そして、8月2日彼は亡くなった。3日後の散骨は、異例の速さではあるが、今までにも一度あった。在日台湾人の方の時で、台湾からいらしていた娘さんの日程でそうなったのだ。今回は、Wさんの強い遺志なのだろう。1人で生きていらした彼の周りへの配慮だと思う。 時々質問されるのだが、散骨する時期はいつがいいのですか?と。散骨に決まりがないように、特に決められた時期はないが、納骨と同じ様な感じで、七七日前後が一番多く、半年後や1年後、1月後も多い。しかし、私はいつでもいいと思う。Wさんの場合、闘病生活が長かった分、それで充分だったのだろう。 熱海への回航は、3時間半から4時間位かかるので、それだけリスクが高い。今までは、帰路風に吹かれたり、雪に降られたり、いつも大変な目に遭う。今回は、往路に霧である。今夏はなんでこんなに霧が多いのだろう。こんなことは、おおよそ初めてである。霧の中を霧笛を鳴らし、レーダーを熟視しながら、3人でしっかり見張りをし、ゆっくり進む。 こんな日は、鯨でも出そうだな、出るといいな。飛び魚が左右に飛んで行く。船長は、カジキマグロがいた。あの背びれは、鯨か?などいろいろ見つけている。鮫らしい背びれと夫婦のシイラがいたらしいが、イルカも鯨も見えなかった。 しかし、帰路、霧は晴れ、風もなく、うねりも大分納まった相模湾、鯨が3頭現れたのである。それだけではない、他の方向には、もっといる。潮を吹きながら、水面を泳いでいる。始めは信じられなかった。 日本近海、それも湘南で鯨に遭うなんて。アラスカやバハカリフォルニアでは、随分鯨に遭ったが、日本では、長いこと海に出ていて初めてである。 船は、進路を変え、鯨に近づいてみた。10メートル位まで接近したが、逃げずに悠々と3頭で泳いでいる。もう、うれしくてうれしくて興奮の極地!鯨の種類は分らなかったが、10メートル位はあっただろう。 その鯨たちが行ってしまって、別の群れの方へ行ってみる。しかし、そちらの群れは近づくと深く潜って、どこかへ行ってしまった。最近、湘南でも海岸に鯨が打ち上げられていたニュースがあったが、あの鯨の家族だったかもしれない。 海の日、海に還る今年は、18日が海の日で、3連休の最後の日となった。そして、この日は、7月の合同散骨の日となり、7柱+10数柱を海にお還しした。 その10数柱とは、相模原の建設予定地から発掘された江戸時代の頃のご遺骨である。 所有者が、発見されたご遺骨を火葬し直し、埋葬しようとしたところ、数件のお寺から断られ、散骨に至ったのである。 不思議な巡り合わせで、うちに来たご遺骨を見て思う。その骨が、どこで自分の先祖と繋がっていたかも知れない。そしてその先祖があって、今の自分が存在するのだと。 3組の合同の方の1人Wさんは、56年前に23歳で亡くなったお姉さまのご遺骨。 大陸から引き揚げて来たとき、そのお姉さんがいたから、帰って来れたという。 いろいろあって、時間が経ってしまったが、ちゃんと供養したいと、手のひらに乗ってしまうくらい少なくなってしまったご遺灰を海に還された。 お父様を亡くされたTさんは、ご自分でご遺骨を細かくされ、それは手作業とは思えぬ細かさ、きれいさだった。きっと思いをそこに込められたに違いない。 そして、奥様を亡くされたOさん。それは、本当に突然の宣告だったに違いない。病院で診察を受けて、亡くなったのは2週間後だった。膵臓がんだった。奥様の希望でも、まだその死が受け入れ難く、最初は散骨にためらいがあったようだ。次の日は七七日だった。 |
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