お客様の声・風の声 2003年12月
2003/12/30 今年最後の散骨は、横浜で
2003/12/18 あの場所に行って花を捧げたい
2003/12/15 未完成の肖像画・・・2
2003/12/15 未完成の肖像画・・・1
2003/12/12 新企画(格安・エコロジーな葬送)のスタート前に・・・5
2003/12/12 新企画(格安・エコロジーな葬送)のスタート前に・・・4
2003/12/12 青空のSORA・・・9
2003/12/12 新企画(格安・エコロジーな葬送)のスタート前に・・・3
2003/12/07 新企画(格安・エコロジーな葬送)のスタート前に・・・2
2003/12/07 新企画(格安・エコロジーな葬送)のスタート前に・・・1
2003/12/02 納骨してから見つかった遺書・・・3
2003年12月30日
今年最後の散骨は、横浜で
昨日、今年最後の散骨が、横浜港沖で行われ無事終わった。好天に恵まれ、比較的暖かではあったが、前線の通過が迫った中で、風が上がって来る事が心配されたが、Kさんご一家乗船中は、なんとか酷くならずに済むことができた。
年末、29日の散骨は、一昨年に続いて2度目である。その時は、ニューヨーク在住の方の帰国に合わせて行われたのだが、今回は、シアトルに嫁がれたお嬢様の帰国に合わせてのことだった。一昨年も天気に恵まれ、帰国された長男の方がピアノを弾かれるなど、良い雰囲気だったが、今回も横浜ベイブリッジをくぐり、みなとみらいの高層ビルを見て、氷川丸が舫われている山下公園付近をクルージングするなど和やかな明るい雰囲気の散骨となった。冬の好天は、富士山もよく見え、水も澄んで気持ちよい。
故人は、大正生まれの横浜元町育ちで、とてもハイカラなご婦人であったらしい。亡くなったら山下公園の側の海に撒いてほしいという遺言だったらしいが、横浜港内はやはりまずいので、港内観光をして沖合いに散骨したのだ。子供の頃に山下公園の側でカニをとって遊んだりしたらしい。
故人の趣味だった新内の唄の稽古のテープを流しながら、赤ワインで献杯する。12個に分けて水溶紙に包まれたご遺骨は、バラとカスミ草で飾られ、家族からのメッセージが添えられている。色とりどりの明るい色調の花びらと共に、故人の好物のおはぎやみかんも供えられた。
ご家族が持参されたお写真で、白髪のご婦人が優しく微笑んでいる。ご自身が唄う新内のテープには、先生の声も入っており、「そこをもう一度」といっている箇所が、いくつかあったのだが、その中で、一番何度もダメがでていたのは、「三途の川が・・・・」というフレーズのところで、「さんー・・・」と唄っては、また直される。
その箇所がなんともおかしくて、みんな笑ってしまうのだが、あまりにも歌詞と状況が重なって、不思議な感じがした。お稽古のときは、お元気で、「三途の川」など先の話だったのだろうが、今ごろは、無事渡り果せて、向こう岸から皆のことを見ていらっしゃるのだろうな。アメリカのお孫さんたちも参加してくれて、本当に喜んでいらっしゃると思う。
さて、私たちの横浜から浦賀までの帰り道、ついに前線に捕まってしまい、海上は大しけとなってしまった。船長は、アッパーデッキーで孤軍奮闘、潮漬けになりながら頑張っていた。船内もピアノの椅子が倒れるなど大揺れ、大荒れ状態であったが、お客様が降りたあとだったので、気は楽だった。「これぐらいの波、なんぼのもんじゃい」という気持ちで耐えた1時間であった。
そして、新年は2日から、串本の黒潮で始まる。来年も良い年ですように!
▲上へ
2003年12月18日
あの場所に行って花を捧げたい
12月4日に奥様の散骨をされた、Sさんから、お便りを頂きました。日誌への掲載を承諾して頂きました。
素敵な証明書を、有り難うございました。家族が見えるところに置いてあります。
私は宗教的な習俗的な事に、全く疎い人間です。家内が逝去して、24時間経ってから火葬し、葬儀社に頼んで、散骨するよう依頼しました。
一切宗教的な事はしていません。お坊さんを呼んで、お経を読んでもらったわけでもないし、バイブルを読んでもらったりもしていません。死者を拝む事もしていません。「海に撒いてくれ」と生前言っていました。
全ては、人の気持ち次第だと思うのです。死を飾るのか、普段何の関心も無い宗教にまかせるのか、そんな事は如何でも良いと、私たち(私と家内)は考えていました。そして、その通りにしたのです。
人の気持ちというのは、死んだ人の気持ちを、汲んだものであれば良いと考えます。来年11月14日に、船でまたあの場所に行って、お花を捧げたいなあと思っています。そのような事は出来ますか?
▲上へ
2003年12月15日
未完成の肖像画・・・2
石井公彦さんから、お手紙を頂きました。承諾を得、掲載します。
前略
11月24日は午前11時、雲一つない風もない素晴らしい好天に恵まれ、無事、散骨の儀式を行うことができました。
散骨に際してアドバイスなど頂き、また綺麗な灰状にして頂き感謝を申し上げます。立ち会って頂いたお住職も、白くすばらしいお骨だと感嘆しておりました。
陸地での散骨は、なかなか難しいとのお話でしたので、妻にとっては運にも恵まれたのだと、涙しております。
生地九州、黒田の村にどっしりそびえる観音山は、霊山として通称「胸の観音」と親しまれ、全国から願掛け参拝の絶えない山で、眼下に豊前平野の広がりと豊前の海まで見渡せる山です。そこで生まれ育った妻にとっては、思いの濃い山であったでしょう。
民謡三味線唄い弾きの芸名を、下黒田村の名を頂いた故郷へ寄せる妻の心情を、お住職及び当山世話役(この山は村の管理下にあります)の方々の心に届き、無理な願いが叶いました。散骨に反対する向きもあったと聞きます。お住職の格別のとり図らいでございました。
当初、三十数年前、妻と登った記憶から、頂の大きな岩上から下に村々を望み、大空へ散骨を行って風に流す、というロマンな情景を思っておりました。
天命つきるとき
手のひらの
ユーホーにて
天空に 飛びたつ
妻の辞世であります。
時の流れは如何しがたく、岩の上には登れないこともわかり、また周囲の状況で、その夢は夢とすることになりました。
お住職から示された場は、観音像が具現したといわれる切り立った巨岩の基で、観音洞の裏手高台にありました。
土をならし、花を供え、ロウソク、お香をたいて、妻の若かりし遺影の前で十人ほどの幼なじみの友の掌で、温かく撒いて頂き、故郷へのお迎えをして頂きました。残った白木の箱は穴に埋め、ちぎった花びらを降らせました。
お住職の読経と共に、妻の唄い弾きの絶唱が、お香の煙りと共に黒田の空に流れた行きました。
「下黒田春江」の墓標とも塚とも、恐れながら心密かに思っていますが、日々、多くの参拝のおすそ分けに与ることにもなり、観音様に優しく抱かれて妻も安らかに眠ることでしょう。
「非常に感銘を受けました。」と、お住職から手紙を頂きました。私も清々しい気持ちと、こみ上げてくる気持ちで、目頭が熱くなる今日このごろです。
追伸
明年、1月18日(日曜日)午後4時、テレビでその様子取材うけていますので、放送予定と聞きました。全国ネット、関東はフジテレビ系で、涙涙でみっともない自分ではありますが、折があったら見てください。
石井公彦
▲上へ
2003年12月15日
未完成の肖像画・・・1
「妻の遺骨の粉末化を、お願いしたい。」と連絡があり、埼玉県の入間へ向かった。石井公彦さんは、古い米軍ハウスをアトリエにしている画家である。
アトリエの真ん中に、未完成の奥様(享年61歳)の肖像画があった。絵の中の奥様からは、やつれているものの、目に力強さがあり、存在感が伝わってくる。「もう、ポーズは取れなかった・・・」と。アトリエにある多くの作品より明るい絵だなぁ、と思った。
奥の壁に大きな風景画があった。前景に赤い教会の屋根、背景には山から海に向かって森、郊外そして海岸の町へと続くスケールの大きな、やや暗い色調の重い作品である。「北欧の風景ですか?」「違います。北海道の小樽です。」しばし見つめ私(船長)は、少年時代すごした風景の中に溶け込んだ想いがした。
奥様のご遺骨と、一巻のビデオテープを預かった。そのテープを再生しながら、ご遺骨の粉末化作業をした。
奥様の「民謡三味線の弾き語り」の公演旅行の記録である。舞台の背景は石井さんの作品である。冒頭やや固かった演奏も、時間が経つにしたがい観客との会話のやり取りのなか、和やかな雰囲気に変わっていく。演奏の合間に挿入された、風にゆれ、落葉の舞う白樺の森や、波立つ湖面や、知床半島の海上からの眺めが素朴な奥様の演奏によく合っていた。肖像画から受けた印象とはまた違う一面があった。ふくよかで、シャイで、おおらかな奥様がいた。
粉末化したご遺骨をお届けした際、アトリエに上がり奥様のこと、絵画のことと話は大いに盛り上がった。最近、抽象画に慣れた私にとって、本格的な具象画に改めて新鮮な感動を貰った。
最後に石井さんが「あの絵は、僕のトラウマを描いたんですよ。」と仰った。大きな風景画のことである。そのトラウマのことは聞けなかった。再会できたら勇気を出して聞いてみよう。気になる絵である。
ご遺骨の粉末化のみの依頼であり、奥様の故郷に散骨されるという。
今回の日誌は、承諾を得、実名で掲載しました。
▲上へ
2003年12月12日
新企画(格安・エコロジーな葬送)のスタート前に・・・5
Tさんからメールを頂きました。
風 様
本日、散骨証明書が届きました。素敵に作ってくださり、ありがとうございました。本当は、ただの紙の証明書だろうなと思っていたので、本当にビックリしました。ご丁寧なお手紙もありがとうございます。
まだまだ、後片付けの日々で、なかなか母の残した物をじっくりと見ることも出来ずにいます。
本当に、それぞれの家族にそれぞれの事情が・・・家はとても複雑でしたから^^;私はそれをシンプルにシンプルにしようと悪戦苦闘して、でも今では、それは形だけの物だったのかなとも思うようになり・・
母は、とても独特の人でした。凛として・・・・普通のおばあさんではありませんですね(笑)
母の生き方を見て、勇気付けられたり、目から鱗が・・・という方も実際にいます。私はとても嫌だったのに、この年になって・・・まだまだ間に合うぞなんて、亡くなってから思ったりしています。
実は来年、50才になります。今年は父と母を亡くし、もうそろそろやりたい事はやらないと、といっても大した事ではありませんが、せめて生活において先のための我慢はもうやめようかなと思っています。人間先はわからないし、年も丁度きりがいいし(^^、これから、どういう風に自分を変えることができるかわかりませんが、自分でも少々楽しみです!
船長御夫妻の生き方は、私とは全然違いますよね・・・不思議ですね、同じ人間なのに・・とても羨ましいです。(笑) でも、きっとそういうチャンスがあっても、私にはできなかっただろうなぁと思います、運命かなぁ~^^;
それぞれ色々な生き方がありますが、悔いのない生涯にしたいと思っています。あまり、こんな事は考えたことがありませんでしたが・・・母が教えてくれたのかな、などと思ったりして(*^_^*)
くだらない事を長々と・・・それでは、また!!ありがとうございました。お風邪など召されないように。
▲上へ
2003年12月12日
新企画(格安・エコロジーな葬送)のスタート前に・・・4
散骨の後、Tさんへ送った、カウンセラーのメールとその返信です。
風 様
お忙しいところ、ご丁寧なメールをありがとうございました。
7月に父が他界、そして8月から母の看病・・・何とか倒れることなく頑張って来ましたが、散骨を前に・・・・母の住んでいた所を見上げて、もう直ぐここにも来る事はないのだなぁ~と思ったら、今まであまり感じた事のない感情がこみ上げて来ました。
流石に昨日は疲れが噴出してきました。初めて疲れた~と倒れこむように眠りました^^;
>例えば、全部散骨してほしいと言っていたとしても、子供たちが愛情から、一部手元に残しておくのは、故人も勿論OKだと思いますし、だれも葬送に呼ばないでと言っていたとしても、彼女を好きだった人たちが、単に義理ではなく、お別れを言いたいと思って来てくれるのは、うれしいと思います。やはり、一番嫌なのは、病気でやつれた自分を見られることと、型どおり僧侶が来たり、戒名を付けられたり、お墓に納骨されることだったのではないでしょうか。
本当にその通りだと思います。本当は会いたい方でも、今の自分の姿を見せるのがイヤで、先日来てくれたお友達にも、お見舞いにも来ないでと言っていたそうです。でも母は昨日、本当はとても喜んでいたと思います。
>新しい形で、簡単に葬儀をしたとき、一番心配なのは、死亡の通知を出した後で、お母様ゆかりの方や、お母様を慕っていらした方などが、しつこくお参りに来たがることだと思います。
はい、その通りです。母の性格を良くわかっていらっしゃる方はわかって下さりますが、これからご挨拶状を送ろうと思っていますが・・・・なかなかそこがこれから大変かなと思っています。
>Tさんのお家に押しかけることになった場合、旦那様のお母様などとのトラブルが無ければいいと思いますが。何人もの方から訪問を受ける恐れが出てくるようであれば、一度、何らかの形で、こじんまりとお別れ会か、偲ぶ会などしておいた方が、ご遺族がラクなケースが、多いようですし、お母様を好きな方たちが、集まって、思い出話をするような集まりをなさるのは、きっとお母様も嫌じゃないと思います。
ご心配頂ありがとうございます!!お棺に入れた本の句会の先生は、偲ぶ会をしてくださるという事で12月の12日に母も連れて、母の様子を話に行ってこようと思っています。本を一緒に入れたことをお話したら、とても喜んで下さいました。
後は、出来るだけそうならないようなご挨拶状を作ろうと思っています。
>最後に、お願いですが、頂いたメール、匿名で部分的に、HPの「風の日誌」に使わせていただいても良いでしょうか。
どうぞどうぞ、つたない文章で申し訳ありませんが^^;使えるものでしたら載せてくださいませ!!
私も、わんこのHPを持っています。頑張って続けていたのですが母が亡くなる前日に、管理に疲れ暫くお休みすることにして閉めたという不思議な経験をしました。
来年にもリニューしてまた再開したいと思っていますが、その時にこの半年の間に経験した介護や病院選び、そうして散骨のことなどを、まだ決めてはいませんが載せようかなと思ってもいます。もし、載せることになりましたまたお知らせしますね!!
また何かありましたら、ご連絡させていただきます。それではまた・・
今回のことで、散骨をしたい方が沢山いらしたことに驚きました。これからもそういう方の力になって、お仕事頑張って下さい!!
▲上へ
2003年12月12日
青空のSORA・・・9
グリも負けていない
ここのところで、我が家は、すっかりSORAの天下になってしまった。何もかも、相手の思惑、迷惑顧みず、自由を謳歌している。夜中には、我々が寝ているベッドの上を走り回り、グリを閉口させて退散させ、寝ている私の鼻の穴に自分の鼻を突っ込む。首の上を歩き回り、突っつき起こす。
グリは苛付き、外に出たり入ったり、そして私に八つ当たり。お陰で、SORAにじゃれられてできた傷とグリに当たられた傷で、手も足もボロボロで、傷口が痒くてたまらない。おまけに交互に起こされ、慢性寝不足だ。
しかし、最近あんずとSORAはほとんどいがみ合わなくなって、お互いがいるのが当たり前という感じで、平和に生活している。
さて、グリである。SORAにチョッカイを出されては、すばしっこく逃げられて、鬼ごっこをしていたが、最近様子が変わった。結構捕まえて組み伏せているのだ。
まるでプロレスか柔道の寝技、ヘビー級とライト級の戦いである。方や10キロ、方や1.7キロである。捕まって下になったSORAは、ミーミーあわれっぽっく泣く。でも、誰も知らん顔。心配させて、相手の油断につけこんで逃げようというのだ。
グリもどっしり押さえて離さない。ワン、ツー、スリー・・・テンまで数え、力を抜く。両者ともそれを楽しんでいるようで、SORAは、ピーピー、ミーミー泣いても、抜け出せば、またグリにチョッカイを出しにいく。やはり、生きて動く物に遊んでもらえるのが一番楽しいのだ。SORAの右後ろ脚も大分筋肉がついてきた、もう一息。
▲上へ
2003年12月12日
新企画(格安・エコロジーな葬送)のスタート前に・・・3
Tさんから、散骨の翌日にメールを頂きました。日誌への掲載を承諾いただきました。カッコ内の文章は船長加筆。
有限会社 風 様
今日は本当にありがとうございました。
初めてメールでご相談して、ご丁寧なお返事を頂、準備をしなければいけないと思いつつ、11月1日に母が亡くなってしまい、途方にくれていた所に何から何までお手配ご配慮いただき、本当にありがとうございました。とても感謝しています。
お二人の自然体の対応に、ついつい甘えてしまいましたが、本日無事に散骨を執り行う事ができまして、本当にありがとうございました。
母の意向通り、出来たかなぁ?これで本当に良かったのかなぁ?と思いつつ・・・お骨を残しておいて、良かったなぁと思っております。(博國屋の、おもいで碑に分骨)
型どおりにまつると言うことなく、自然といつもそばに居る。そんな風に、我が家になじんでくれればなぁと、思っています。縁の薄い母でしたが、40年ぶりにこれからは一緒に居られます。
それから、お寿司やさんのお手配もありがとうございました。お店の奥様は、わがままな献立にもとてもご配慮いただき・・・先生(出席された弁護士さんは、好き嫌いの多いかたでした)が食べられるお料理を一生懸命考えて下さったようで・・・食べられるお料理が沢山あり、喜んでいました。何かの機会にまたお会いする事がありましたら、宜しくお伝え下さいまし!
本当に本日はありがとうございました。取り急ぎお礼まで・・・
▲上へ
2003年12月7日
新企画(格安・エコロジーな葬送)のスタート前に・・・2
本当に、「葬儀をしなくてもいい、散骨をしてくれれば」と言う場合、必要なのは、病院からの搬送と安置場所、そして棺とドライアイス、棺用葬具と骨壷だ。そして、病院からの死亡診断書を役所に出し、火葬許可書をもらう。24時間経たなければ火葬はできないので、その後の火葬場の予約をする。
一般的に朝一番と夕方は、空いていて予約もスムーズだ。問題は安置場所で、公営の斎場は安いのだが、混んでいて一週間ぐらい待たされてしまう。今回は、Tさんの住まいが藤沢だったこともあり、特に親戚や友人もお呼びにならないと言うことだったので、白宝社の大和斎場に安置してもらうことになったのだ。
今回、この試みが初めてだったこともあって、『散骨』『葬儀はしない』『誰も呼ばなくてよい』などの故人の言葉の受け取り方は、いろいろ考慮の余地があると思った。その裏のなぜかという部分がかなり大事だからだ。「散骨」にしても、費用が安いからか、墓に入りたくないから、海が好きだからか、家族に墓の面倒をかけたくないからか、それによっていろいろ変わってくる。「葬儀はしない」も葬儀をしてはいけないのか、費用の問題なのかで、どこまでやって良いかがか違ってくる。参加者もどこまでなら、呼んでもいいのか問題だ。Tさんも急なことで、すぐに結論を出さなければならず、いろいろ迷い、悩んだと思う。
火葬まで丸1日の中で、彼女はとりあえず親しかった何人かに声をかけ、花を用意した。棺、棺用具一式、線香など一式、そして骨壷は、斎場で用意してもらった。火葬許可書と車の手配もその葬儀社にお願いした。
翌火葬当日朝、私と船長は斎場へ向かい火葬場に同行した。Tさん1人で送るのかと思っていたのだが、実際は、お孫さんも含め、7人ぐらいが集まった。朝一番の火葬場は、やはり空いていて、こぢんまりとした葬送には、気兼ねが無くてよかったように思えた。その後には、日曜ということもあっても、大人数でお坊さんに導かれたご一家の火葬が何組かあったからだ。
よその参列を見ていて、Hさんの写真があってもよかったな、と思った。時間もなかったのだが、すべての無駄を排除したからだが。結局は始末に困る大きな黒枠の写真ではなく、後からも飾っておける大きさの素敵な写真が用意できれば良かったと思ったのだ。それはカラーコピーなどで、時間が無くてもできる。
Tさんが婚家に配慮していたので、ご遺骨もすぐに預かるかもしれないと思っていたが、やはり、彼女の家に散骨まで置くことになった。そして「散骨」も故人が合同でということで、伺っていたが、追加で5人増え、7人が参加なさった。そして彼女の判断で、ご遺骨も「おもいで碑(博國屋)」に入れご自身用とお兄様用にお残しになった。
Tさんはお母様とは縁が薄く、親子の情としてもいろいろ複雑なものがお有りになったようだが、最後は、やはり実の母という思いが強くあったようだ。結果的にHさんの遺言より多くの人に送られることになったが、彼女を思う人たちが集まったことは、きっと満足だったことと思う。
▲上へ
2003年12月7日
新企画(格安・エコロジーな葬送)のスタート前に・・・1
「風」の東京事務所は、千代田区のダイヤモンドホテルの中にある、株式会社ウィルライフの中に置いてもらっている。ウィルライフは、宇宙葬や、ダンボールの棺を扱っている会社である。
夏の終わりごろから、その「ウィルライフ」と「風」とで提携し、火葬と自然葬のみの簡素な葬送、それも地球環境に優しく、経済的なものが出来ないかとその企画に取り組み始めていた。そんな時、タイミングよくというか、TさんからEメールを戴いたのだ。
そしてそれは、あまりにも早い結末だった。初めてTさんからメールの相談を受けて、1ヶ月半にもならなかった。離れて暮らしているお母様の具合が悪く、介護をなさっているということだったが、本人が生前に葬儀の事を心配しているので教えてほしいということだった。
お母様のHさんは、気丈な方らしく、資料をお送りした後に一度、ご自分でも電話をかけていらした。その時は、まだしっかりしていらしたご様子だったのに。それから3週間も経たないうちだった。
Hさんは、まだTさんが子供のころに離婚して、ずっと1人で暮らしていたということで、元気なうちから、ご自分の葬儀のことなどを考えておられたようだった。まず、一般的な葬儀などしないで、勿論僧侶も呼ばず無宗教で、できるだけ簡素に人も呼ばずに火葬して、散骨してほしいということのようだった。
自宅には居られるだけいて療養し、ギリギリまで入院はしなかった。入院なさった時、Tさんから連絡を受け、また別の病院に移すつもりだが、万が一の時は、お願いしますというような内容で、まだまだ先のことだろう、とお互いにその時は思っていたのだ。Tさんも衣笠のホスピスに手続きをしているところだったのに、間に合わなかった。
土曜日だった。なぜかその日は、私も早起きだったのだが、早朝の電話に何だろうと思っていると、Tさんからで、いよいよ危篤なのだということだった。私もいよいよという思いで、ウィルライフから話を通してあった横浜の葬儀社さんに電話を入れ、協力をお願いした。そして危篤の電話からお亡くなりになったという連絡まで、本当に30分位しかなく、彼女もご臨終に間に合わなかったのだが、私も少しあわててしまった。しかし、幸い、その新企画で、いろいろ勉強しており、病院からの搬送の車も、搬送先も見つかったことで、ひとまずは安心し、私も急いで病院へかけつけた。
▲上へ
2003年12月2日
納骨してから見つかった遺書・・・3
Gさんから、お手紙を頂きました。承諾を得、掲載します。
紅葉の季節も終わり、今年もあと一ヶ月と成り、街にはクリスマスのイルミネーションが、とても綺麗に飾りつけてあります。
この度は、大変お手数をかけまして、申し訳ございません。風さまにお世話になりまして、二ヶ月になります。私も、娘二人の夫婦共々に、親切、丁寧な対応して戴き、とても感謝しております。風さまにお願いして本当に良かったと思っております。
私も突然の主人の死から三年、とても悲しくて、悲しくて、寂しくて、ひとり、毎日泣き続いた日々を過ごして来ました。風さまにお世話になり、お手紙を頂き、何度も何度も読み返し、涙を流しました。
私も、ちょっとづつ元気に、前に進んで行くつもりです。有り難うございました。心より、お礼申しあげます。
▲上へ |